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預かり屋 榊便利堂 ~死に際の想いのこもった最期の一言を届ける裏稼業~   作者: MIYA
最終章 行ってくるね

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第79話 渡していない名前


 久保田美和は父のノートをコピー機へ載せたまま、スタートボタンを押せずにいた。十五年前の八月の頁には、避難所へ頼まれた買い物代や、身内へ掛けた電話の番号も並んでいる。町へ出すことを考えて持ってきたが、誰でも読める紙にしてよい内容ばかりではなかった。


「窓口で、必要な範囲を相談できますよ」と夫が言った。

「そうする。全部預けて、あとで返してもらえんかったら困るし」


 美和はコピーをやめてノートを自分の鞄へ戻した。父が生きているときに古いことを尋ねなかった理由はいくつもある。話すと怒るから、聞いてもわからないから、今年の庭の金柑が実るころには何か教えてくれるだろうと思っていたから。ひとつ選べと言われても困った。


 役場の文書係へ行くと、牧野が面談室の空きを確かめ、原本を預からずに相談を受けた。個人の住所や電話番号の載った頁を複写する場合は、本人の希望する利用範囲を先に記録するという。


「この日付だけでも、役に立ちますか」

「元の記録と照らさないとわかりません。ただ、日付があること自体は大切です」


 牧野は美和の目の前で、どの頁を確認したかを書き留めた。提出する写しは美和自身が選び、正式に受け取るなら後日受付番号を渡す。今日のところは相談の記録だけを残すことになった。


 相談室を出る前に、美和は父のノートをもう一度開いた。仕事の連絡先の隣に、食料品の買い物が同じ筆跡で並んでいる。どこまでを公の仕事の記録として提出するか選ぶには、娘の自分にも知らないことが多い。


「全部写して、個人の住所だけ消せばいいですか」

「必要な範囲を決めてからにしましょう」と牧野が答えた。「こちらで確認したい頁がわかったら、別にご相談します」


 美和は目印の付箋を付けたままノートを閉じた。後から別の家族へ説明するとき、町が求めていない頁まで渡してしまったとわかれば揉めるかもしれない。夫は廊下で子どもからの着信を受けていた。今日の夕飯に食べたいものを訊かれたらしく、親子で意見が割れている。


 牧野から渡された相談控えには、今日見せた頁の年月日だけが記されていた。美和は窓口でコピーを取らなかったことに少し安心したものの、次に来るとき同じところを探せるよう、表紙裏へ挟んだしおりに頁数を控えた。


 父の家を片づけたとき、親戚の一人が古い写真を全部まとめて見たいと言っていた。その人が仕事用の記録まで見たいのかは、美和にはわからない。帰りの車で夫へ相談すると、まず写真だけ別にしてはどうかと返された。いま決められることは、それくらいだった。


「お義父さんのノートの話、今日はここまで?」

「今日は相談しただけ。写しを出すなら、帰ってからほかの親戚にも電話する」

「帰りに金柑の木、見に寄る?」

「暗くなる前なら。隣の人へ脚立返したし、実がまだあるかもしれん」


 ふたりは駐車場へ出て車に乗り、次に父の家へ行く日の候補だけ電話で確かめた。


           ※


 午後、楓は父の義信が台所で茶を淹れているところへ帰った。役場では災害関連の文書を扱う担当から外れたままだが、今日、美和が来庁したことは仕事中に知ってはいない。


「父さん、この前、連絡所の紙を出したあと、何か連絡あった?」

「まだない。必要なら呼ぶ言うとった」

「じゃあ、呼ばれたら行くんだね」

「おまえも来るか」

「仕事なら担当の人が同席する。家の用事なら、休みの日に話を聞くよ」


 義信は湯飲みを二つ置いてから、ひとつを棚へ戻した。楓が今夜は友人に会うと言っていたことを思い出したらしい。


「透くんのことか」

「うん。昔のことで、いまになって気になったことがあるって」

「俺が知っとる話やろか」

「父さんへ聞きたいなら、本人が来ると思う」


 楓は玄関に鞄を置き、冷蔵庫の残り物で夕飯を用意した。父親の過去を、役場の職員としても娘としても全部整理できるわけではない。少なくとも今日は、夕食の時間を守らなくてはならない。


 義信は食卓へ箸を二膳出し、楓が味噌汁を温め終えるのを待っていた。娘の職場で行われている記録調査のことは、今日は尋ねなかった。楓も父親に、昼間の窓口へ誰が来たか聞かない。調理した分を小さな保存容器へ分け、明日の朝に食べる一膳だけ冷蔵庫へ入れた。


           ※


 美和が帰宅してノートを机へ置くと、子どもが何の宿題なのかと覗き込んだ。父の仕事の紙だと答えると、祖父の字は読みにくいと言う。美和自身も読み慣れていない行がある。子どもへ読める言葉だけ選んで教えたくなかったので、今日はここまでとノートを閉じた。


「おじいちゃんのこと、学校で話したらだめ?」

「普通に話すんはいいよ。でもこの古い紙のことは、まだ人に説明できるほどわからん」

「何かわかったら教えて」

「そのときにな」


 子どものノートには、父から教わったという字が一つ書かれていた。美和には、その字を教える場面の記憶がない。書き順を尋ねられ、二人で教科書を開いて確かめた。


 子どもは納得したような顔をして、夕飯の前に自分の宿題へ戻った。美和は冷蔵庫から野菜を出し、夫へノートを置く場所を尋ねた。仕事場の棚には置きたくないし、実家へ戻せば次の確認が遅れる。ふたりで相談し、鍵付きの引き出しへしまっておくことにした。どの頁を誰へ見せたかは別の紙へ書き、翌日親戚へ電話する予定もそこへ残した。


 夕食後、美和は父がよく作っていた金柑の甘煮を思い出し、保存瓶が残っていないか台所の棚を探した。底に少しだけ入った瓶は見つかったが、いつ煮たものかわからない。子どもに食べさせる前に処分することにして、瓶だけ洗った。


 保存瓶には蓋が合わなくなっていた。美和は別の蓋を探したが、結局、瓶を逆さまにして乾かした。


           ※


 夜、透は公開されている追補の写しへ小さな付箋を貼っていた。一次の記録で未確認だった四世帯が、翌朝の集計では根拠を書かれないまま「避難済み」になっている。トヨは別の舟で助かったと自分の名で相談したが、あの四世帯の誰かと同じだったかどうか、町はまだ確かめている。


 黒瀬が渡してくれなかった二人の名前もある。彼が最初の舟で助かった三人のうちの一人だったことはわかった。それで両親が誰を迎えに二度目の舟を出したかがわかったわけでもない。


 透は付箋に「未確認」と書き、祖父の帳面と並べた。誰かが名前を明かせば、一晩のことがすべて読めるようになると、どこかで期待していたのかもしれない。


 そこへ楓から連絡が来た。


『仕事、まだ終わってない?』

「こっちは閉められる。どうした」

『夕飯のあとで寄ってもいい? 役場で知った話じゃないよ。わたしから聞いておきたいことがある』


 透は付箋を帳面の外へ出したまま、来てもらう時刻を答えた。


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