第76話 二枚の伝票
榊便利堂に八月の仕事が入ると、千鶴は見積書の日付を二度確かめる。去年、祭りの翌日に終えた網戸修理を、祭りの前に済ませたことにして請求しかけたからだ。
「十五日って、休みにしていいんですよね」
「夕方までの修理が一本ある。朝のうちに終わると思うけど」
「思う、で予定を書かないでください。うちの店にも手伝いに戻るんですから」
千鶴は便利堂の勤務日ではない。乾物屋から頼まれた贈答箱の受け取りに来て、ついでに机の上で斜めになっていた伝票を揃えていた。祭りの売り場には昆布と干し椎茸を出す。母親は去年の売れ残りを覚えているので、今年は仕入れ数を増やさないと決めていた。
透は約束の仕事を作業表へ書き込み、十五日の午後を空欄にした。
「これでいい?」
「ちゃんと、朝の一本が終われば」
「信用ないな」
「去年の網戸を思い出してください」
千鶴は自分の伝票を鞄に収め、次の配達へ戻った。
千鶴が店を出ると、透は机に残った二枚の紙を裏返した。一枚は今日の見積書で、もう一枚は仏壇の引き出しから持ってきた両親の死亡に関する古い書類の写しだった。
古い紙には、二人の名と確認された日付が記されている。舟がどこを通り、なぜ二度目に出たのかはない。その空欄を黒瀬の便箋だけで埋めるのは、まだ違う気がした。
十五年前の祖父の帳面も開く。七月の最後の見積もりは、雨戸の戸車の交換だった。次は十月初め、網戸二枚。間の頁には薄い罫線が続いている。
祖父は三十二年前、別の人の言葉を届けられなかった。浦上ノブへ渡した手紙の写しが、隣の封筒にある。ノブは原本を自分の引き出しにしまい、音吉の言葉の全文が残っていないことも承知していた。だから透も、この空白を別の預かり仕事があった証拠にはできなかった。
けれど帳面を閉じると、十二歳の自分へ焼き飯を出していた祖父の手が浮かぶ。あの夏、祖父は毎朝店にいたはずだ。それなのに二か月間、一件も仕事を記さなかった。
透は「記録なし」とだけメモし、隣に「仕事なしとは限らない」と書き足した。
※
その後、宅配便の運転手が段ボールを三箱持ってきた。乾物屋の贈答箱と、便利堂で注文した窓枠の部品が一緒に積まれている。送り先は二軒とも同じ通りだからと、運転手がまとめて下ろしかけた。
「藤木さんの分は隣の店です」と透が言った。
「そうでしたか。いつもここへ下ろしてるんで」
「今日は千鶴、あっちへ戻ってます。伝票だけ確認させてください」
箱の側面へ油性ペンで書かれた数字を照合すると、窓枠の部品だけが自分の注文より一組多い。透がメーカーへ電話をすると、発注用紙に自分で書いた数が間違っていた。返品できる期限と送料を聞き、千鶴に連絡したい衝動を抑えた。今日は彼女の勤務日ではないし、修理の客を待たせるのは自分だ。
返品の条件は、組み立て前で梱包材が揃っていることだった。透は箱を開ける前にメーカーへ品番を伝え、確認した内容を伝票の裏へ書いた。業者の間違いにしてもらえれば送料は安くなるが、発注を間違えたのは自分だ。電話口でそのことを伝えると、担当者は返品先と集荷の受付番号を案内した。
乾物屋の贈答箱を受け取りに来た運転手へ、今度は自分の返品箱の引き取り日を確認する。運転手は別の配達先にも寄るから、集荷の依頼は会社へ入れてくれと言った。透は伝票の余白に連絡番号を書き、余った部品を元の緩衝材へ戻した。
余った部品を別の箱へ移していると、梶が通りがかり、昼飯の米は研いだかと尋ねた。透がまだだと答えると、台所へ入って米びつを開けた。今週は野菜を届けに来る日ではないのに、どうして来たのか聞けば、梶は散歩のついでと言う。
「散歩なら、帰りに麦茶でも飲んでください」
「飲む前に火を付けろ。鍋、からっぽやろ」
透は冷蔵庫から昨日の残り物を出した。祖父の帳面を広げたままでも、昼飯を食べる時間を過去の調査から借りる必要はない。梶が炊飯器の蓋を閉めるまで、透は伝票を片づけていた。
梶が炊いた米は、祖父のころから使っている炊飯器でいつもより固く仕上がった。透が水の量を間違えたのではと聞くと、梶は米びつの底に残っていた古い分と新しい分を混ぜたからだと言う。
「そんな細かいこと、最初に教えてくださいよ」
「食えんほど固くないやろ。嫌ならお茶漬けにせえ」
梶は勝手に台所の鍋を開け、昨日の残りの味噌汁を温め直した。ふたりで食卓へ着くと、透は請求書の束を机の端へ寄せた。祖父が若いころから使っていた机には、食事のときに醤油をこぼして付いた跡がある。十五年前にもこの場所で何度か梶と食事をしたが、朝と昼のどちらだったかは今も定かではない。
「そのころ、祖父が俺を港へ連れてった日はありますか」
「港の近くまでは何度かやな。いつも帰りに釣り道具を持ってきた覚えがある」
「十五年前の八月?」
「年まで確かめんかった。おまえ、普通の日もよく港へ出とったろ」
梶は箸を置き、「それより味噌汁、冷めるぞ」と茶碗を顎で示した。透は聞き直すのをやめ、味噌汁の鍋をもう一度温めた。
食後、梶は余ったご飯を容器へ詰めて帰った。透の分も一つ残し、「次に航んとこで昼を食うなら持ってけ」と言う。透は冷蔵庫の棚を開け、受け取った容器を空いている場所へ置いた。
午後の配達が終わったという千鶴からの連絡には、伝票を受け取ったことだけ返した。
透は発注書の数字に赤で訂正線を引き、返品の受付番号を転記した。納品書を日付順に綴じ、今度工場へ持っていく金具を袋へ入れた。
※
午後、戸倉航から電話があった。工場の棚は残った扉の調整も終わったらしい。
『お前、金具付けて帰ってから一回も見に来ないな』
「用事があれば呼ぶだろ」
『用事がなくても、自分の仕事がどうなったか見に来いよ』
「今週どこかで寄る」
『昼休みならいいぞ。来る前に電話せえ』
透は朝から開いたままの封筒を閉じた。仕事の話で電話を掛けてきた航に、つい十五年前のことまで尋ねそうになっていた。
「航。十五年前の夜のこと、俺、まだ自分の覚えてるところと人から聞いたところを混ぜてる」
向こうで工具の落ちる音がした。
『そうか。俺はお前の家におらんかったから、その区別はできんぞ』
「わかってる」
『来るなら、工場の昼休みな。飯食いながらでよければ聞く』
電話を切った透は、朝の見積書の金額を確かめ、両親の書類だけ棚の引き出しへしまった。




