第74話 二度目の出航
八月に入った週の終わり、黒瀬巌は、集会所に置かれた最後の長机について、処分費の見積もりを受け取った。野添は今年の祭りに必要な机の数を数え直し、追加で借りるより修理のほうが安いと言った。ただし脚の腐食が進んでいるから、修理しても来年以降は使えないかもしれない。
「新しく買うなら、次の予算で考えます」と野添は言った。
「今年は借りんで足りるんか」
「雨が降って会場を変える場合は不足します。そっちは別に頼みます」
黒瀬は、野添が作った雨天時の連絡表を見る。かつて自分の名前が入っていた代理欄には、別の若い人の名が二つ記されていた。体調や家の都合で欠けたとき、その人たちがどう引き継ぐかまで書かれている。
今年は誰か一人が決めてしまう祭りにはしたくないと、野添は先月から言い続けていた。黒瀬はそれに賛成したが、十五年前の自分がそうできなかった理由を、若い人に押しつけるつもりはなかった。
※
集会所から帰った黒瀬は、野添が書き直した連絡表を自宅の机へ広げた。雨天時の代行者欄には二人の名前がある。十五年前の古い紙には、自分の名前しかない欄が多かった。その差を見て、昔の紙を今のものへ書き換えたくなる衝動を抑える。
台所から妻が呼んだ。祭りで使っていた古い椅子を納戸へ戻すなら、今年こそ脚の裏の埃を落としてほしいという。黒瀬が椅子をひっくり返すと、釘が一本浮いていた。自分で打ち直せるが、今夜は工具を出すより先に埃を拭き取るだけにした。
「役の人ら、机足りるんか」と妻が尋ねる。
「足りんかったら借りるそうや。わしが買う話にはなっとらん」
「ほんなら、そっちはもう任せたら」
黒瀬は古い当番表を畳み、妻が出してきた封筒へ入れた。明日、透へ見せる便箋も同じ机へ置いてあるが、古い会の書類とは混ぜない。帰りの時間を伝えると、妻は午前中に買い物へ行くので鍵を持って出るよう念を押した。
夜、黒瀬は第一便で岸へ降りたあと自分の足元が何だったか、思い出せる範囲をもう一度紙へ書いた。泥か海水か区別できないものは、どちらとも書かない。正確には聞き取れなかった透の父の返事も、語尾を作って書くことはしなかった。
翌日の約束を終えて帰宅すると、黒瀬は署名した便箋の控えを妻へ見せた。妻は文面を読んでも、何も新しいことは言わなかった。昔から、あの夜に黒瀬が一度救われたあとも何かを引きずっていることは知っていたからだ。
「今度は役場へ持っていくん?」
「本人の名前をどう書くか、向こうへ一度相談してからやな」
「相談する前に、勝手に昔の紙を出さんといてよ」
妻が心配していたのは、黒瀬が町の人全員の秘密を握っているというような話ではない。知らない相手に家の古い写真を見られ、載っている人へ断りなく名前を出してしまうことだった。黒瀬は今年の祭りの当番表を手に取り、現役の係へ連絡が必要な時間帯だけ印を付けた。
翌朝、野添から今年の会場の机について電話が入った。最後の一台は無理に修理せず、借りた机を雨天時用に使うことになったという。黒瀬は了解し、倉庫から持ち出す必要のある道具を確認した。古い祭りで続行を決めたことを取り消せなくても、今年の安全確認を若い人へ任せて手伝うことはできる。
※
翌日、黒瀬は透を旧船着き場へ呼んだ。透のほうも、黒瀬へ一度確認したいことがあった。十五年前の救助については、最初の舟の話だけを聞いている。ほかの二人の名前も、最初の便から戻ったあと何が起きたかも、まだ知らない。
「今年、町の古い記録に追補が付いたそうですな」
「公表された部分は読みました。四世帯の安否は、まだ調べてるって」
「その紙を見てから、あの晩のことをもう一度書きました」
黒瀬が持ってきたのは、自分の家で書いた日付入りの便箋だった。野添に預けた旧祭りの資料とは別のものだ。黒瀬は透へ原本を渡さず、まず自分で読み上げた。
両親が出した最初の舟から、黒瀬を含む三人が降りた。足元の悪い船着き場で、母は乗せてきた人たちを岸へ誘導し、父は舟の紐を結び直した。黒瀬は一度だけ、もう出るのかと声を掛けた。父が何と答えたか、周囲が騒がしくて正確には覚えていない。
「二人は、もう一度出たんですか」
「私は、そう見ています。岸を離れるところを見ましたから」
「誰かを迎えに?」
「そうだと思うた。でも、誰を乗せるつもりやったか、二人から直接聞いたわけではない」
黒瀬は、自分が見たことと、翌日に人づてで聞いたことを分けて話した。二度目に出た舟が帰らず、後日、転覆していたと知らされた。どの場所まで行けたか、誰が乗ったかは、黒瀬の目では確かめていない。
「どうして今まで、その話をせんかったんですか」
「おまえが最初に訊いたとき、私は最初の便を話すだけで精一杯やった。もう一度出たと言えば、その先も知ってるように受け取られるのが怖かった」
「でも、出たところは見てるんですよね」
「見た。そこは、いま話したとおりや」
透は、去年まで仏壇の引き出しにしまっていた親の死亡に関する古い書類を思い出した。子どものころは、役所の紙には亡くなった日が書いてあるものだと思っていた。転覆した舟の詳しい航路まで書かれていたわけではない。
黒瀬は、ほかの二人の名については、本人または遺族が話す前に自分から明かすのは避けたいと言った。透は今すぐ名前を聞き出すことはしなかった。その代わり、見たことだけを書いた便箋の写しをもらえるか尋ねた。
「役場へ正式に出す分は、野添らとも相談します。おまえへは、いま書いたものを撮ってええ」
便箋には、黒瀬が乗っていた舟から三人が降りたことと、透の両親が再び舟を出したことを、本人が見た順に記した。透は両親がどこへ向かったか尋ねかけ、黒瀬が首を横へ振るのを見て質問を止めた。あの晩の港は人の声と船外機の音が混ざっていたという。目撃したことより先を、黒瀬に書き足させるわけにはいかなかった。
黒瀬は日付と署名を入れ直し、透に撮影させた。最初の便のときと同じく、写したのは本人が確かめたあとの文面だけだった。
※
その日の夕方、透は航の工場へ寄り、棚の追加部品を取り付けた。親の話を聞いたことは告げなかったが、航には、工具を二度落としたのを見られた。
「今日はそこまでにしとけ。残りは俺がやる」
「明日までに終わらせる約束だろ」
「金具はもう付いとる。扉は俺の工場のもんや」
航が工具を取り上げ、透へ冷たい麦茶を渡した。透は一口飲み、工場の奥で鳴っている圧縮機の音を聞いた。黒瀬の話をそのまま両親の最期の行動に置き換えるには、まだ何もかも足りなかった。




