第73話 帰った人
火曜の朝、トヨは妹に頼んで、昨日の会館で借りた椅子の貸出票を返してもらった。姉は新聞の字が小さいと文句を言いながら、台所で野菜の皮を剥いている。昨日の用事を、二人に説明するつもりはあったが、何から話せばいいかわからなかった。
「ハルさんの娘さん、変わっとらんかった?」と妹が訊いた。
「子どものころの顔は残っとった。あの子、いま仕事も休んで来とるらしい」
「昔の家の話、したん?」
「ちょっとだけ。表札が残っとったって」
トヨは湯飲みを手元へ寄せた。ハルの声を聞いたとたん、十五年前の雨を思い出したわけではない。昨日は会館から帰る途中、買ってきた野菜をどこへしまうかで妹と喧嘩しかけた。夜になってから写真をもう一度見たいと思い、紗江へ連絡した。
紗江から届いた画像には、木の反り返った部分まで写っていた。トヨはその裏側の釘を覚えている。柱へ打つとき、長さを間違えたハルに自分が文句を言ったのだ。
「町から来た人、役場の人でもないんやろ」と姉が言った。
「便利屋さん。ハルさんに頼まれたらしい」
「役場には、まだ何も言わんの?」
姉がそう尋ねたのは、最近、臥雲町の古い避難記録に不一致が見つかったという知らせを見たからだった。トヨはあの夜、別の舟に乗って助かった。町が残した集計の中で、自分がどこに数えられているかは知らない。姉妹の家へ来る前には、避難した先で何度も名前を書いたが、その紙が臥雲町に届いたかはわからなかった。
「うちが見たもんは話せる。見てないもんまで、見た言うことはできん」
「そりゃそうやね。あんたがどこから乗ったか、あたしも聞いたことしか知らん」
姉は野菜の皮を新聞へ包んだ。トヨは、今週中に町へ連絡するか、まず自分の記録をまとめるかで迷っていた。急いで提出しても、どの書類が本人のものとして扱われるか確認しなければならない。
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トヨの妹は、昨日会館で撮った写真の保存先を携帯の中で探していた。トヨはそれを横から覗き、旧家の表札だけの画像をもう一度送ってほしいと頼んだ。受け取ったばかりの言葉のことより、木目の反った裏側が先に気になっていた。
「壁の釘、あんたが長いの買うてきたんやろ」と妹が言う。
「いや、ハルさんやったと思うけど」
「うちも覚えとらんわ。長かったから叩いて曲げたんは知っとる」
覚えているところが二人で違っても、今から誰に確かめられるわけではない。トヨは写真の裏側を拡大し、紗江へ現物の寸法を尋ねるメッセージを書きかけてやめた。まだ引き取る日を決めていないのに、先に荷物の大きさだけ調べることには気が引けた。
妹が昼の買い物へ出たあと、トヨは姉から、自分が町へ手紙を書くなら先に見せてほしいと言われた。姉は勝手に添削するつもりではないが、今の住所だけは外へ広められたくないらしい。トヨは同じ家に暮らす三人が何を困ると考えているか聞いてから、手紙を書く場所を決めた。封筒に差出人を書く欄は、まだ空いたままだった。
トヨは手紙を書くため、新しい便箋を姉から分けてもらった。昔の救助について話すなら、どの舟だったかを自分の言葉で書きたい。けれど岸の名前が今も同じなのか、記憶の中で変わっていないかは確かめようがなかった。
「昔の地図、まだ持っとる?」と妹に尋ねた。
「引っ越したとき捨てたと思う。今の地図なら買えるけど」
「昔の場所を、今の道で指すのは違うやろ」
姉は二人のやり取りを聞き、図書館に古い地図があるか調べてもいいと言った。ただし地図を見れば忘れていたことが全部戻るわけではない。トヨは思い出せる場所から順に記し、分からないところは空欄にした。
便箋の右上に、今住んでいる家の住所を書くか迷った。本人確認には必要かもしれないが、記録が公開されたときそのまま載るのは望まない。妹に相談すると、最初の手紙には連絡できる方法だけ伝えて、必要になったら担当者へ相談するのがよいと言った。
トヨはそれに従うと決めた。昨日受け取った声については、役場へ書くつもりがない。自分が生き延びた舟の話をするとき、ハルの沈黙や家の表札のことまで説明しなければならない理由はなかった。
姉が帰ってくると、トヨは書きかけの便箋を見せ、地名の一文字だけ確かめてもらった。姉も記憶は曖昧だと言い、無理に正しい字を書かなくてよいと答えた。トヨはその欄を空けたまま、いま確かに言えることの続きを書いた。
※
同じ日の午後、透は便利堂で、昨日の走行距離とガソリン代を控えていた。依頼人は亡くなっている。配達先が直接訪問を希望したからといって、車を出した費用を紗江へ無断で上乗せする気にはなれなかった。予約時の条件と実費を照合し、後日説明できる形で分けて記す。
千鶴が棚金具を受け取りに行った帰り、航から預かった領収書を持ってきた。彼女は車を借りられなかったので、部品を小さな箱にしてもらい、自転車で運んだらしい。透は重さを確かめてから、代わりに行けなかったことを伝えた。
「次から、頼むなら前の日までに言ってください」
「そうする」
「私の仕事もありますから。今日、乾物屋の注文を一件断ったんですよ」
「それは、俺が決めていいことじゃないな」
「いま決めなくても、予定は先に聞いてください」
千鶴は領収書を帳簿へ挟み、奥で湯を沸かした。透は昨夜からもう一件、新しく言葉を預かったわけではない。ハルの一言はトヨの前で離れたが、桑島の腐ったものは相変わらず深いところに残り、使えなくなった一語も戻らない。
夕方、紗江から電話があった。トヨが写真をもう一度欲しいと言ったので、表札の裏面も撮って送ったという。木箱はまだ母の家にあり、引き取る時期は先方と相談して決めるらしい。
「榊さん、昨日、ありがとうございました。でも、母が何で十五年も黙ってたんかは、私にはわからんままです」
「俺にもわかりません」
「トヨさんが、亡くなった人の代わりに話してくれとも言わんかったので。それなら、いまわかる分だけでええです」
紗江は通話を切る前に、もう一つ言った。
「トヨさん、あの晩、別の舟で助けられたって。役場へ話すか、妹さんと相談するそうです」
紗江は電話越しに、木箱を母の家へ戻したと話した。「あれを見て泣くと思うとったけど、トヨさんはまず裏の木を見てた」と言い、返事を求めず通話を終えようとした。透は写真を見せると決めたのも、原物を持ち出さなかったのも紗江自身だと覚えていたので、表札をどう処分するつもりかは訊かなかった。
透はその情報を、千鶴のいる作業場で声に出さなかった。本人が役場へ届けるかどうかを決めるまでは、透がほかの人へ教える事実ではない。




