第72話 名前のない帰り道
月曜の朝、透と紗江は七時を少し回ったころ町を出た。ハルの家を片づけてから、紗江が遠出するのは初めてだった。後部座席に積んだのは水と弁当、それから、本人から頼まれたときにだけ見せるための写真の入った封筒だ。表札そのものは、娘が管理する家の物置に残してきた。
山を越える道で小雨が降った。紗江は母が運転するとき必ず窓を少し開けていたことを話し、すぐ別の話へ移った。浴衣の仕立てを二件延期したため、明日は早く店へ行かなくてはならないらしい。
「ずっと前のこと聞かれても、私、覚えとらんことありますよ」
「答えなくていいと思います。聞きたいことがあれば、俺が席を外します」
「でも、母が頼んだ相手なんでしょう。そこまで何も聞かずに終わってええんかな」
透は答えなかった。会う前にどうしてほしいか決められるのは、いま車に乗っている二人だけではない。
峠を越えたところで、紗江は車内の冷房を一段下げてもらった。母の車に乗ると必ず窓を開けたくなったが、今日は山道の排気が気になる。透は道の駅の手前で一度車を止め、助手席から落ちた案内図を拾った。
「帰り、ここで何か買って帰れますか」と紗江が聞いた。
「時間が合えば。今日は夕方までに町へ戻ればいいので」
「母の仏壇に置くもの、何か探しておきたくて」
紗江は小さな売店へ入り、結局何も買わずに戻った。母が好きだった菓子が見当たらず、似たものを選ぶ気になれなかったらしい。透は買った水を後部座席へ置き、再び道へ出た。
車が走り出すと、紗江はトヨに何と名乗るか考え始めた。小さいころ一緒にいたなら自分の名を覚えているかもしれないが、記憶の中の子どもと今の自分は違う。透が「お母さんの娘さんです」で十分ではと伝えると、紗江は首を振った。
「母の娘なんはそうですけど、わたしも昔あの家にいたんです」
「じゃあ、紗江です、でいいと思います」
紗江は笑い、手帳に自分の苗字を書きかけてやめた。母の旧姓がトヨにとって何を意味するかは、会ってみないとわからない。会館の前へ着くまで、言葉は練習しないことにした。
会館のある町へ入ってから、紗江は道沿いの売店で母へ供える花を見つけた。昨日なら買わなかったかもしれない。遠出した先でしか手に入らないものを、母が喜ぶと決めつけるのも気が引けて、結局花束の代わりに小さな菓子を一つ選んだ。
「帰ってから、写真の横へ置きます」と紗江が言った。
「帰り、寄り道する時間はあります。用事が済んでからでも」と透が答える。
会館まではあと十分ほどだった。紗江は助手席で写真の封筒を確かめ、トヨが入ってから自分で名乗るつもりだと透に言った。透は駐車場の入口を確認し、予約した会議室の番号を車の時計の横へ置いた。
※
九時四十分、指定された町外の会館へ着いた。受付の人は、トヨたちが十一時ころに来る予定だと伝えた。会議室は午前中だけ借りてあり、廊下では別の団体が壁新聞を貼っている。
透は待つあいだ、ハルから預かった一言を口の中で繰り返すことはしなかった。そんなことをしても、本人の前で出るときの声を自分で選べるわけではない。紗江は封筒を膝へ載せ、何度も時計を見た。
十時半を過ぎると、紗江は封筒を膝から机へ移した。透は受付から渡された会館の利用案内を見て、部屋の使用期限を確かめる。トヨの都合で話が長くなれば、受付へ延長できるか尋ねるほかない。話の内容を準備しても、人が来る時刻までは早くできなかった。
やがて廊下から二人分の足音がした。受付の人が扉を開け、背の小さな女を案内してくる。もう一人は買い物袋を提げた妹らしく、部屋の隅の椅子を先に確かめた。
「榊さんいうのは、どちら?」
トヨがそう尋ね、透と目を合わせた。
「トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ」
透は、自分で名乗る前にハルの声が出たことに気づいた。喉を押さえようとしたときには、もう終わっていた。昨日まで確かにあった一言は、どこにも引っ掛からない。
トヨは手にしていた日除けの帽子を椅子へ置いた。妹が立ったまま透を見ていたので、先に座りなさいと促した。
「……ハルさん、そう言うたんか」
「はい。いま出たのが、預かった全部です」
「わたし宛てやって、本人が言うたんやね」
「そう聞いて、予約を受けました」
トヨは、紗江へ向き直った。娘だと名乗ると、しばらく昔の顔と見比べるように目を細めた。
「大きなったな。うちにおったころは、戸を閉めるんも忘れて遊んどった」
「お久しぶりです。お母さんが、こんなこと頼んでたなんて知らなくて」
紗江が言葉を切ると、トヨは手を上げた。
「聞いたよ。受け取ります。そのために来たんやから」
透は頭を下げた。声が届いたことと、トヨが何を思ったかは別にしておこうとする以前に、いま尋ねる用件がもうない。席を外そうとしたが、トヨが少し待つように言った。
「榊さんは、あの家に行ったことある?」
「いまの家には。昔の建物は、写真でしか知りません」
「わたし、あそこの裏の一部屋に長いこと住んどったんよ。ハルさんのほうが年上で、よう言い合いしたわ」
紗江は封筒に手を伸ばしたが、まだ開かなかった。
「母が残してた物があるんです。いま、見てもらってもいいですか」
「何?」
「古い表札です。うちの、前の家の」
トヨは妹を見た。妹は小さく頷き、荷物の中から眼鏡を出して渡した。紗江が写真を見せると、トヨは『宮下』の文字を指でなぞった。
「残っとったんか」
「母が、ずっと箱に入れてたみたいです」
「わたし、流されたと思うてた。帰ったら、柱だけ白うなっとったから」
トヨは眼鏡を外し、写真を紗江へ返した。
「わたしがあの家を出るとき、戻る場所が残るようにって、柱の札は外さんといて言うたことがある。ハルさん、あの晩どうしたんやろね」
紗江は、母が最後の一言で表札を指したのかと尋ねた。トヨは少し考え、それなら聞き覚えはあると言ったが、それ以上の答えを持っているわけではなかった。
「もらって帰ります?」
「今日はええ。そっちに置いといて。妹らとも相談するわ。勝手に庭へ戻したりせんといてな」
「はい。私が預かります」
妹が、帰りの車の時間を確認した。トヨは会館の時計を見上げると、先に紗江と二人で話してもよいかと尋ねた。透は席を立ち、廊下へ出た。
自動販売機の前に小学生が二人並び、十円玉を数えている。窓の外では、雨がやんでいた。透は飲み物を買い、廊下のベンチへ座った。七日目の午前十一時過ぎだった。




