第71話 持ち出さない
日曜の午後、紗江は母の物置をもう一度開けた。明日トヨに会うと決まってから、表札を持っていくべきか何度も迷っている。十五年前、ハルが木箱へしまったものが、いま誰のものになるのか、書類の上では簡単に答えが出る。家の遺品は娘が引き受けている。だが、トヨはその家で長く暮らしていた人だった。
紗江は表札を新聞紙から外し、裏側を確かめた。壁へ留めていた釘が二本残り、湿った木が反っている。小学生のころ、この札の下でトヨに髪を結い直してもらった。夏の祭りの日、母が手伝いを断った客へ腹を立て、トヨが代わりに頭を下げたこともあった。血のつながりがなければ、ああいう面倒を頼んではいけなかったのかもしれないと、子どものころは考えもしなかった。
紗江は写真を一枚撮り、表札を箱に戻した。明日、本人が欲しいと言ったら渡せるよう、新聞紙を新しくしておく。しかし、先に写真を見せて話す順番をこちらで決めるのも違う気がした。
「明日は、母が何を託したかを聞いてもらうだけにしよう」
誰もいない部屋で口にすると、明日、母が託した相手と自分も会うのだとようやく実感した。紗江は透へ待ち合わせ場所と道順を送り、彼の車で出掛けることを確かめた。
※
紗江が物置の錠を下ろすと、携帯へ洋品店からの短い連絡が入った。明日の試着を待っていた客が、どうしても今日受け取りたいという。頼まれた寸法を変えず、袖の裏だけ先に仕上げてもらえるかを確認すると、同僚は午後までなら対応できると言った。
「明日休むの、急すぎたかな」と紗江が言うと、同僚は「もう店長が決めたから」と返した。母が亡くなってから、仕事を休む理由を何度も説明させてしまったことが気になっていた。礼を言い、客へ電話を掛けて引き取りを午後へ変更してもらう。今日のうちにできることを済ませたら、明日は会館へ集中できる。
物置の前を通ると、表札の入った箱が見えた。新聞紙を新しくしても、木の反りや釘の錆は変わらない。紗江は写真を送った封筒の番号を確かめ、明日持っていくものへ入れた。現物を持ち出さないと決めた以上、写真だけでは十分でないと言われる可能性もある。それなら本人の希望を聞いたあと、改めて運ぶ日を考えればよい。
近所の女性が母の貸していた物干し竿を返しに来た。紗江は置き場所を指し、来週までにもう一度使う予定はないか聞いた。女性は今月の手芸会の話を始めたが、紗江は午後の店の用事を伝え、話の続きは帰宅してから電話で聞くと約束した。
紗江が洋品店へ向かう自分の車へ荷物を積みかけると、同居している親戚が、明日は誰が母の家を開けるのか尋ねた。今日は洋品店があるからと鍵の場所を教えると、勝手に物置まで見てもよいかと聞かれる。
「居間の掃除はお願いします。でも、表札の箱はそのままにしておいて」
「古い札やろ。湿気がこもってるなら、風を通したほうがええよ」
「もう確認してあります。トヨさんと話してから考えたいんです」
親戚はその名を聞き、一度だけ懐かしいと言った。昔同じ家に出入りしていたことがあるらしいが、今どこに暮らしているかは知らない。紗江は詳しい昔話を聞きかけてやめた。明日の面会へ持っていくのは、母の代わりの記憶をたくさん集めた紙ではなく、本人が許可した写真だけにするつもりだった。
帰り支度をしていると、洋品店の同僚から裾直しの仕上がり写真が届いた。左右の柄は客が求めた位置へ収まり、あとは本人が試着して確認するだけになっている。紗江は日付と担当者の名を仕立て帳へ書き込み、休んでいるあいだに誰が説明できるかを確認してから店を出た。
家へ戻って車の鍵を置くと、母の昔の茶筒が食卓に出ていた。ハルの飲みかけの茶を処分するか親戚に尋ねられ、紗江は中身は捨てても茶筒は洗って残してほしいと頼んだ。何を保管するか決める仕事は、明日トヨへ言葉が届くかどうかと関係なく続く。
紗江は母の車に積んでいた折り畳み傘を一度取り出し、骨の曲がったほうは家に残した。雨の予報があるので、自分の傘を持っていく。便利堂で修理を頼もうとしていた母の予定は、もうそのままにはできなかった。
紗江は表札を包み直したあと、木箱の蓋に新しい紙を貼った。母の字で書かれた古い控えは剥がさず、その上から透明な袋へ入れる。明日の面会が終わっても持ち主が決まるとは限らない。帰宅したとき誰かが片づけてしまわないよう、同居の親戚にも箱の置き場所を伝えた。鍵を掛けるほどのことか迷ったが、いまは自分が管理していると明言しておく必要があった。
※
紗江は表札の写真を入れた封筒の外側に、自分の氏名と「本人に求められた場合のみ提示」と書いた。葬儀のあいだに家の整理を手伝ってくれた親戚へは、明日の用事を細かく説明しなかった。ただ、昼まで留守にすることと、母の箱は誰にも開けないでほしいことを伝えた。親戚は座布団の返却だけ先にしておくと言った。
透は航の工場で、以前から頼まれていた棚金具の発注内容を確認していた。部品の数は足りているが、右側に付けた金具だけサイズが違う。航は交換を頼むと言い、送り状の寸法を透へ見せた。
「月曜、遠くまで行くんか」
「用事がある。火曜には戻ってる」
「じゃ、棚は水曜。俺も月曜は町外へ部品を取りに行く」
「そんなに出掛けて、店は」
「お前が自分の店の心配しろ」
航は伝票を引っ込め、店の奥から母を呼んだ。明日の昼の弁当は要らないと伝えるだけの用件だったが、母はついでに透の分まで握り飯を持たせようとした。透が断ると、航が横から一つ取った。
「こいつ、朝食うてないときでも食うたって言うからな」
「言うな」
航の母は小さな包みに梅干しを二つ入れた。透は結局、受け取って帰った。
※
夕方、楓から電話があった。役場では来月の祭りに合わせ、公開できる十五年前の追補の説明をもう一度用意しているという。報道へ見せる範囲の確認が必要で、彼女自身はその担当ではない。父の義信へ取材の申し込みが来たことだけ、家で聞いた。
「父さん、自分の名前で答えるらしい。私に何を言うか見せてくれたけど、直してはないよ」
「うん」
「透さんは、明日、仕事?」
「ハルさんの用事で町外へ行く」
楓はそこで、何を預かったのか尋ねるのをやめた。窓口では明日、住民票の申請が多い日だ。帰りが遅くなるので、夕飯は父に任せるつもりだと言う。
「気をつけてね。出発、早いんでしょう」
「二時間くらい掛かる。七時過ぎには出る」
「だったら、今夜のうちに車の給油しといて」
電話を切ると、透は燃料計を確かめた。航の母が持たせてくれた握り飯は、まだ作業台の端にある。朝まで置けば悪くなるので、その日のうちに食べた。




