第69話 別の舟
土曜の午前、トヨは妹と二人で、台所の流しの蛇口を取り替えていた。買ってきた部品が合わず、妹がもう一度店へ走るという。トヨは、ならば今日は洗面所のほうも見てきてほしいと頼んだ。
「ひとつでええって言うたやん」と妹が言う。
「ついでや。二度も行くほうが面倒やろ」
「ついでが増えるから、二度目になるんよ」
姉は朝から隣町の図書館に出掛けていた。三人で暮らす家には、それぞれの用事があり、一人が留守だからといって日中の家事が止まるわけでもなかった。
昼過ぎ、トヨの携帯が鳴った。以前通っていた会館の受付からで、昔暮らしていた臥雲町の人が連絡を取りたがっているという。電話番号だけ渡してよいかと聞かれ、トヨは相手の名前を確かめた。
『榊便利堂という方です。宮下ハルさんのお名前が出ています』
トヨは食卓の椅子を引いた。
「ハルさん、どうしたん」
『ご家族から頼まれたそうで。詳しいお話は、わたしからは伺っていません』
トヨは電話口でしばらく黙った。ここへ来てから、臥雲町の誰かに自分の新しい住所を教えたことはほとんどない。十五年前の出来事を知る人間から電話が来ると、決まって昔の話を最初から説明しなくてはならないのが嫌だった。自分の住まいを知られたくない相手もいた。
「番号は渡さんで。こっちから掛けるか、考えるから」
『承知しました』
通話を終えると、トヨは蛇口の部品の箱を開け直した。規格の数字が、小さく印刷されている。老眼鏡を探していると、妹が袋をぶら下げて帰ってきた。
「なかったん?」
「こっちの型は、置いてなかった。取り寄せやって」
妹は取り寄せ品の規格表をテーブルへ置き、トヨの携帯が裏返されているのに気づいた。
「誰からやった」
「昔の町から。ハルさんが、何か言うてるらしい」
「会いたいん?」
「わからん」
トヨは手元の金具を袋へ戻した。
あの夜、彼女を陸へ戻したのは、岸の反対側から来た小さな舟だった。夜の港で何が起きていたか、すべてを見たわけではない。水に浸かった荷物を抱えたまま、知らない家の二階で朝まで過ごした。翌日になって戻ろうとすると、道が通れないと止められた。ハルのいた家へ行けたのは、そのあともずっと後だった。
そこで目にしたのは、柱に残る四角い日焼けの跡だった。表札が外されている。誰が持っていったのか訊いても、はっきり答えてくれる人はいなかった。
「うち、あの家に何年もおったやろ。帰る場所がなくなったのは、家だけやないんよ」
妹は何も言わず、蛇口の箱を片づけた。十五年前、トヨを迎えに行ったのは妹だった。別の舟がどこへ着いたか聞き回り、避難先でようやく見つけた。自分が探した道を、あとから誰かがひとまとめに語るのは、妹も好まなかった。
「会うなら、一緒に行くよ」
「まだ会う言うてない」
トヨは会館の電話番号を紙へ書き、自分の財布へ入れた。姉が帰ったら、まず夕飯の買い物を頼まなくてはならない。
※
その日の夕方、トヨは交換を諦めた古い部品を新聞にくるみ、流しの下へ置いた。妹が取り寄せを頼んだ部品は月曜まで届かない。今夜は蛇口の根元から水が漏れないようバケツを当てて、台所を使うたびに元栓を閉めることにした。
「姉ちゃん、今日も遅いんやろか」とトヨが独り言を言う。
棚の奥から、以前の町の祭りで使った小さな巾着が出てきた。トヨは、まだこの家に越してくる前、旧宮下家の廊下でその紐を縫い直したことを思い出す。ハルとどちらが縫ったのかは覚えていない。表の柄だけは、台所の窓に下がっていた暖簾と同じだった。
妹が道具を片づけに来ると、トヨは巾着を見せた。妹はそんなものを持っていたかと言い、興味を示さなかった。代わりに店員から借りた部品の型番表を広げ、来週届く品の番号に丸をつけた。「月曜の午前は病院やから、取りに行けるんは昼から」と妹が言う。トヨは会館へ電話を掛ける時間も自分で決めると答えた。
トヨは夕飯に使う鍋を棚から取ろうとして、古い新聞を見つめた。十五年前の臥雲町の出来事は、その年の紙を開かなくても思い出せる。けれど、誰かから電話が来てその夜の説明を求められることと、姉妹で住む家の蛇口を直すことは、どちらか一つを終えなければ次へ進めない用事ではなかった。
夕飯の支度には、トヨが昨日の残り物を出した。姉は朝から図書館へ行くとき冷蔵庫へ付箋を貼っており、今日は魚が食べたいと書いてある。妹は、魚を買うのは自分なのに注文だけ残すのかと文句を言った。
「魚、あんたが選んだらええやん」とトヨが言う。
「うちが買うと、結局あんたら食べんやろ」
「焼いたら食べるよ。昨日は煮魚やっただけ」
夕飯の買い物袋を片づけたあと、トヨは食器棚の下にしまっていた木箱からアルバムを出した。トヨが今の家へ来るとき持ってきたもので、表紙には何も書いていない。中には旧宮下家の台所や、祭りに出掛けた日に撮った写真がある。しかし、十五年前の高潮当日の写真は一枚もない。あの日に写真を撮る人がそばにいなかったのか、自分がそのあと何かを失くしたのかも覚えていなかった。
「この写真、ハルさん?」と妹が聞く。
「そう。わしら、ここでよう裁縫したんよ」
「ここ、家の前に柿の木あるな」
「そんなに大きくなかった。背伸びしたら枝に届いたんや」
写真の端には、昔の手芸会で使った針山が写り込んでいた。ハルがこの家にいたころのことを話し始めても、妹は知らない名前まで覚える気はないらしい。「会いたくないなら断るって言えばええ」とだけ言う。トヨはその言い方が気に入らず、古い写真を自分の膝へ戻した。会うかどうかより先に、自分の知らないところで話を決められるのが嫌だった。
アルバムの頁をめくると、トヨは柿の木の下に立った自分の影を見つけた。写真の中の自分はカメラを向けられて腹を立てたのか、半分背を向けている。誰が撮ったかはわからなかった。妹は今日直した蛇口の説明書をアルバムの上へ置こうとし、トヨに怒られた。二人で説明書を台所の引き出しへ移し、午後の買い物を書き出す。
妹が蛇口の箱を片づけると、トヨは夕飯の米を炊き始めた。アルバムは食卓へ置いたままにしておく。誰に見せるか決めていない写真を、自分だけの判断でよその人へ送るつもりはない。今日、会館から電話が来ても、今の暮らしのことまで説明する必要はなかった。
トヨはアルバムの最後の頁へ挟まれた白い紙を抜いた。今の家へ引っ越したとき、妹が住所を書いてくれたものだ。臥雲町の古い住所の上から消した跡はなく、別の頁に残したままだった。どちらも昔の自分が住んだ場所として、大切に取っておくことにした。
妹は部品の取り寄せ票を冷蔵庫に貼った。月曜に店へ取りに行くのを忘れないためだ。トヨはそれを見て、家を直すときはこんな紙一枚でも役に立つのに、十五年前の夜には誰がどの舟に乗ったかを残せなかったのかと考えた。だが、そこから先は妹にも分からない。姉が帰ると、三人は夕飯の魚を焼く順番を決めた。




