第68話 転送先
金曜の朝、透は紗江が転記を許した古い住所へ手紙を出した。差出人には榊便利堂の屋号と電話番号だけを書き、本文では依頼の内容に触れなかった。本人でなければ開封しないでほしい、必要なら同封した返信用の紙へ連絡の可否だけ記してほしいと添えた。
配達まで待っていたら、七日は過ぎるかもしれない。だからといって古い電話帳の似た名前を片端から呼び出せば、知らない人へハルの死を話すことになる。
紗江は午前中、店の仕立て代の精算をしていた。今日返すはずだった浴衣は、布の柄を合わせる位置が難しく、ほかの職人には頼めなかった。途中まで縫って午後の来客へ遅れる旨を伝え、昼食も取らずに母の家へ向かう。
通夜を終えた部屋には、誰が持ってきたものかわからない紙袋が四つ残っていた。袋の中身を確かめると、ハルが手芸会で使っていた糸と、名札をまとめた布袋だった。名札の裏側に、会の世話人の電話番号がある。
「母と一緒に縫ってた人のことで、訊きたいんです」
紗江が電話すると、世話人はハルの死をすでに知っていた。会の名簿に載る住所は教えられないが、昔ハルが連絡を取っていた人のことで心当たりがあるという。自分がその人と現在も付き合っているわけではなく、町外の別の会館に移ったと聞いた程度だった。
『こっちから会館へ訊くことはできるよ。向こうの人が伝えてくれるかはわからんけど』
「無理に住所は聞かんでください。本人へ、話を聞いてもらえるかだけ」
電話を切ると、紗江は透へ会館の公開番号を知らせた。頼りになるかもしれない、と書きかけて消す。母が十年以上しまっていた住所より新しい手掛かりでも、人が一人間に入るだけで話が止まることがある。
※
手芸会の世話人が会館の名前を調べるあいだ、紗江は一度洋品店へ戻った。預かっていた浴衣の襟の線が左右で少しずれている。昨日別の職人が縫ってくれた部分をほどき、客に説明するところからやり直した。
「明日の午前中に仕上がるならええよ」と客が言う。
「柄を合わせるだけなら、今晩までにできます。でも一度洗ったら、縫い目が寄るかもしれません」
「ほんなら、試着してから持って帰ります」
客は明日の夕方なら店へ来られると決めた。紗江が予定表へ名前を書いたところで、手芸会の女性から折り返しがあった。教えてもらったのは会館の代表番号だけで、誰がいつ使っているかの名簿は持っていないという。
「そこへ頼めば、トヨさんに会えるんでしょうか」
『わからん。昔その会館におったと聞いただけやからね』
「わかりました。番号だけで十分です」
紗江は透へ連絡先だけを送り、由来を短く付け加えた。直接連絡が取れないかもしれないことも書く。もし相手が会いたくないと言ったら、便宜を図ってもう一度探してもらうつもりはなかった。
店の窓から通りを見ると、仕立てを頼んだ客が傘を差して歩いていた。母から受け継いだ物置と違い、自分の仕事場では今日の納期を一日間違えるだけで人を待たせる。紗江は携帯を伏せ、浴衣の裾へ待ち針を打ち直した。
手芸会の旧世話人からもう一度電話があり、会館へ連絡してみたが、個人の利用日までは教えられなかったと言う。紗江は手間を掛けたことへ礼を言い、それ以上の問い合わせを頼まなかった。相手の行動を便利堂へどう説明するか迷ったが、結局「会館の代表番号のみ確認」と一文を添えた。
洋品店のカウンターでは、試着に来た客が浴衣を広げていた。裾の柄が左右で二センチほどずれて見えると指摘され、紗江は布を裏返して縫い目を確かめる。客が立った姿と、平らな机へ置いた状態では、柄の見え方が違う。急いで修正する前に、一度帯を結んでもらってから鏡で確認した。
「この柄、真っすぐにしようとすると、別の線が曲がって見えますね」
「そうやろ。うち、そこが気になってた」
「袖は元の位置のままでいいですか」
「袖は触らんで。去年より短くなるのは困る」
紗江は注文票へ客の言ったことをそのまま記し、直す部分を最小限にした。母が残したものを扱うときにも、ついよかれと思って手を加えれば、相手が望んだ形から離れることがある。そう考えて仕立ての仕事を終えても、ハルが最後に頼んだ言葉の中身まで知れるわけではなかった。
店の閉店準備が終わると、紗江は家の玄関へ寄り、母の郵便受けを確かめた。古い住所を載せた手紙の返事は、まだ来ていない。誰の手元へ届くかわからない以上、急いで催促の葉書を出すことはせず、透からの連絡を待つことにした。
客が帰ったあと、紗江は袖の修正に使った糸を元の箱へ戻した。母の裁縫箱には似た色が残っていたが、店の糸と混ぜれば次の注文のとき種類がわからなくなる。自分の仕事用の引き出しを閉じ、便利堂からの返事だけ携帯で確かめた。
閉店の札を下げるとき、紗江は明日の採寸の予約をもう一度確かめた。休みを取ったぶん別の職人へ任せた裾直しについて、客へ連絡する必要もある。遠くの人を探す手掛かりが見つからない日でも、店の仕事を放り出すわけにはいかない。透へは会館の折り返しが来たらすぐ知らせるとだけ伝え、夜は作業台の上の糸を片づけた。
※
会館の受付で応じた人は、トヨの名を聞いてすぐ答えなかった。利用者名簿を電話で確認することはできないと言い、用件の伝言だけなら受け付けるという。
「お願いできます。返事があった場合だけ、こちらへ掛け直してもらえれば」
『ご本人に届くかも約束できません』
「わかりました」
透はハルの娘から依頼を受けていることと、急ぎで会いたい事情があることだけを説明した。何を預かったかは書かず、連絡先を残す。受付の人は復唱して、電話を切った。
午後には、久保田家の雨戸修理の差額返金について、美和から書類が届いた。送金先の名義を確認していた千鶴が、口座の番号を一字ずつ読み上げる。透は数字の間違いがないことを確かめ、振込日を記した。
「この一件、戻すところまでが修理代ですからね」
「わかってる」
「預かった紙が二つ重なると、透さん、急ぐほうを上に置くんで」
千鶴は返金用紙を帳簿に留めてから、ハルの件については聞かなかった。もうすぐ仕事を終えて乾物屋へ戻る時刻だった。母の店ではお盆前に贈答用の箱を組み始める。
会館の受付から確認されたのは、伝言を預かったという事実だけだった。転居先の住所や電話番号を教えないと言われても、透には反論する理由がない。紗江へは「連絡を待っています」とだけ伝え、古い葉書そのものを持ち出さず住所の控えを封筒に戻した。事務所の棚には別の客の修理済みの雨戸があり、翌朝の引き取りに備えて二人で車の荷台を空けた。
閉店後、透は古い住所へ出した手紙の控えを見た。速達にしても、宛先の人がもう住んでいなければ意味はない。会館からの返事は、まだ来なかった。




