第66話 残した住所
水曜の朝、紗江は母の家の食器棚を開けた。茶碗が五つ、奥へ伏せて重ねてある。夏の手芸会で使う予定だったらしいが、誰が取りに来るのか紙が残っていなかった。
葬儀の段取りを任せていた親戚から電話が入り、会館の利用時刻をもう一度確かめる。紗江は自分の店へ休みの連絡も入れた。引き受けた浴衣の裾直しは、別の職人へ回せるものだけ回してもらう。仕立て途中の一枚だけは、自分が戻らないと寸法がわからない。
昼前、透が庭先まで来た。紗江が呼んだのは、預けた先を探すために必要なことを話すと決めたからだ。話す気になれないなら、その場で帰ってもらうつもりだった。
「昨日、病院でずっと考えてました。母がそんなこと頼んでたなんて、聞いてなかったから」
「予約に来たのは月曜です。トヨさんに会える保証はできないと説明しました」
「母が自分で決めたんなら、そこはもう聞きません。でも、手紙を全部持っていかれるのは困ります」
「封筒の表だけでも、本人の名前がわかるものがあれば」
紗江は居間の引き出しから、三通の年賀状を出した。一枚はノブから、残る二枚は町外へ出ていった友人からだった。トヨのものは、そこにはない。
「昔の手紙は、別の箱です。母が、雨の日に段ボールへ入れ直したことがあって」
箱を探しているとき、紗江の携帯へ店から連絡が来た。採寸を任せた同僚が寸法表の字を読み取れないという。紗江は電話越しに説明しようとしてやめ、帰るまで裁断を待ってもらうことにした。母の手紙も同じように、当人以外が読めない文字があって当然だと、引き出しの札を一枚ずつ確かめ直した。
押入れの下段から箱を出すと、封筒の角が湿気で貼りついていた。差出人が読み取れるものだけ紗江が分け、透には座って待ってもらった。電話番号の書かれた手紙もあったが、家族がまだ住んでいるかわからない相手の番号を、いきなり他人へ渡す気にはなれなかった。
トヨからの便りは、十年以上前の暑中見舞いだった。表に町外の住所がある。短い文面には『妹のところへ移った』と書かれ、その下に、新しい住所をまた知らせるとだけあった。次の便りは見当たらない。
「これなら、住所だけ写していいです。中身は私が持ってます」
透は了承を得て封筒の住所と消印の年を控えた。住居が残っているかどうかすらわからない。紗江は、もし本人が見つかったら、母の手紙を渡す前に自分へも連絡してほしいと頼んだ。
「母と何があったか、わたしが知らんこともあるから。聞かれたら全部答えられると思わんでください」
「わかりました。用件を聞けない人に、昔のことまで話すつもりはありません」
透が帰ろうとすると、紗江は物置の扉を見た。古い表札の箱がある。母の死を知らせる電話を何本も掛けた昨日も、その箱だけは触っていない。
「もう一つ、母が捨てるなと言うとった物があるんです。でも、これがトヨさんと関係あるかは、私にはわからん」
「いま無理に開けんでいいです」
「開けるときは、私が決めます」
紗江は鍵を掛け、通夜の準備へ戻った。
※
紗江が押入れの戸を閉めると、居間の電話が鳴った。受話器を取ると、母の手芸会の女性で、今月の当番を誰が代わるか相談したいという。ハルが亡くなったことは知っていたが、会館に預けた布や針箱の引き取りまでは家族に頼んでよいのか迷っていたらしい。
「会館のほうで保管してもらえるなら、今週はそのままでお願いします」
『縫いかけのものが一つあるのよ。今月の展示へ出すって言うてたから』
「展示のこと、私、聞いてないんです。出せるなら、皆さんで決めてください」
女性は展示が終わったら写真を送ると言い、電話を切った。紗江はその約束を手帳へ書き込んだ。便利堂へ渡す情報と、手芸会で決めてもらうことと、自分の店の仕事が、同じ母の名前の下に並んでいる。全部をいま解決する必要はないが、返事を忘れれば相手の予定が止まる。
家の裏では、洗濯物を取り込んだ親戚が紗江へ声を掛けてきた。母の葬儀へ県外から来る人の人数がまだわからないという。紗江は携帯の着信履歴を開き、返信できていない二人の名前を見つけた。トヨの古い住所を探す手は、通話が済むまで止めるしかなかった。
千鶴の配達が一軒終わったころ、紗江から便利堂へ折り返しがあった。透が外で作業をしているため、戻る時刻だけ伝えるという。紗江は手芸会の人が母の遺品について連絡してきたことを説明し、聞ける人がいるなら旧住所もわかるかもしれないと付け加えた。
「それ、透さんへ全部話しときましょうか」と千鶴が尋ねた。
「探してもらってる人のことだけでいいです。会の持ち物は、うちで確認します」
「わかりました。分けて伝えます」
千鶴は便箋を二つに折り、上段だけ預かり屋の用件として透へ渡すことにした。仕事の休憩を終えると、実家の母から仕入れの確認が入る。ハルの昆布は今週配達する予定だったが、亡くなったことを聞いても、すぐに伝票を廃棄する気にはなれない。支払いの済んでいない分は家族へどう扱うか尋ねてから決める。母は、千鶴が便利堂のことばかり考えていると言い、伝票を持って店頭へ戻った。
紗江は便利堂への電話を終えると、自分の店から預かっていた仕立ての寸法メモを探した。母の友人の連絡先と同じ鞄へ入れてしまい、今日渡す約束だった客の名前がすぐに見つからない。ノートを二冊に分けることにして、葬儀の段取りだけを書いたほうを食卓へ置き、自分の仕事用のものは鞄へ戻した。明日誰かに頼める仕事と、どうしても自分が仕上げなければならない仕事は、これで少し区別できるようになった。
夕方、紗江は仕立て途中の浴衣を引き取った客に電話をし、裾の長さをもう一度確認した。忙しい客は採寸に来られず、先日残したメモの寸法でよいという。紗江は母の糸切り鋏を布でくるんで仕事用の鞄に入れ、仕立ての途中で預かった着物と間違えないよう札を付けた。
※
便利堂では、千鶴が午前の配達伝票を二つに分けていた。今日は店の勤務日だが、午後に乾物屋から呼ばれる可能性がある。母のほうで人手が足りないらしい。
「お通夜に伺うなら、私、夕方は無理かもしれません」
「仕事を優先していい。葬儀のことは家族が決める」
「透さんは?」
「必要なら明日の午後。今日は頼まれた修理を先に済ませる」
千鶴は自分の名前が入った配達票を一枚取り、二軒分だけ明日へ回した。ハルの名前が書かれた昆布の注文票は、別の綴りに挟んでおく。母の店へ報告するものと、便利堂で処理するものは、同じ机に置くとすぐに混ざってしまう。




