第65話 朝の電話
翌朝、紗江が台所へ入ると、ハルの風呂敷は畳の上に広げられたままだった。縫い残した端へ、赤い糸を通した針が刺してある。朝食の米は炊けていたが、母の湯飲みが棚から出ていない。
「お母さん、今日は早起きやないんか」
奥の部屋に声を掛けると、ハルは布団の上で目を開けていた。額に汗が浮かび、起き上がろうとしても手がうまく動かない。紗江はすぐに救急へ電話し、母が何を話せるかを伝えた。
「昨日は一人で町を歩いてたんです。今朝から、急に」
救急車を待つあいだに近所の診療所へも連絡すると、電話に出た川辺看護師が、いまは指示どおり待ってほしいと言った。紗江が母の枕元へ戻ると、ハルは口を動かしていた。
「……榊の」
「便利堂? 昨日行ったとこ?」
ハルは頷いた。紗江は手元の携帯から便利堂へかけ直す。千鶴の出勤日ではなかったらしく、何度目かで透が出た。
「母が、榊さん呼んでくれって。救急はもう呼んでます。用件、昨日頼んだことかもしれません」
透は朝の修理へ出る支度をしていた。先に救急を呼んだことを確認し、今日の依頼人へ事情を連絡してから、必要な道具だけ車へ積んだ。透が着いたころ、紗江は玄関を開け放ち、救急隊が入る通路の荷物をどかしていた。
「無理させんでください。俺が来たことだけ伝えます」
「わかってます。でも、どうしてもって言うから」
ハルは透の顔を見ると、手を上げようとした。紗江が手を取って布団へ戻す。透は枕元へ膝をつき、前日書いた予約用紙を鞄から取り出しかけてやめた。文字で確認する時間を作るより、いま母親の声を聞いておきたいという娘の手を邪魔したくなかった。
「ハルさん、榊です。来ましたよ」
ハルは唇を動かした。紗江が聞き取れず身を寄せると、透の内側へ、昨日店で話したときと同じ声が入り込んだ。
「トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ」
透は息を詰め、頷いた。ハルの目は、まだ娘のほうを向いていた。
「相手は、昨日の紙に書いた人ですね。引き受けました」
紗江には、母が何を言ったのかわからない。ただ、透が聞き取れたらしいことはわかった。
救急隊が到着し、透は場所を空けた。ハルは搬送され、紗江も車に同乗した。病院で医師から死亡を伝えられたのは、それからしばらくしてのことだった。亡くなった原因について、紗江は必要な説明を受けたが、透へ詳しいことを話すつもりはなかった。
※
紗江は病院から戻っても、朝炊いた米を捨てられずにいた。葬儀社の人は冷蔵庫にある食べ物を先に片づけておくとよいと言ったが、母の湯飲みを棚へ戻すことにはまだ手が動かない。近所の女性が来て、明日以降の食事は差し入れると言ってくれた。
「冷凍できる分は入れとくね。お客さん用のお湯だけ、沸かし直す?」
「ありがとうございます。台所、まだ私が勝手わからんところありますから」
ハルの家に通っていたはずなのに、普段使う鍋がどの引き出しへ入るかは何度も尋ねなければならない。紗江は針の刺さった風呂敷を畳みかけ、糸を抜いてから箱へしまった。縫いかけの端だけはほつれないよう糸で留めておく。誰かが完成させるかどうか、今日決めたくなかった。
便利堂の透へ電話を掛けようとして、昨朝頼んであった浴衣の引き取りを思い出した。店の同僚に事情を説明すると、すでに客へ延期の連絡をしてくれていた。寸法のメモだけ必要なので、翌日店へ来られるかと尋ねられる。紗江は夕方なら一時間だけ、と伝えてから親戚と葬儀の日取りを調整した。
台所へ戻ると、冷えたご飯を容器に分けていた女性が、ハルがいつも茶に入れていた茶匙を見せた。引き出しの奥に同じものが三本ある。紗江が一つだけ残してほしいと頼むと、女性は何も言わず、ほかの二本を洗って乾かした。
昼過ぎ、紗江は母の手芸会の道具を片づけようとしたが、どれが借り物なのかわからなくなった。布袋には同じ色の糸が何本も入っている。会から借りた針山だけには名札が付いていて、それを見つけたときようやく今週の当番を思い出した。
「縫い物の展示、今月なんやって」と親戚へ言う。
「お母さん、先月からあれを楽しみにしとったで」
「知ってます。でも、何を出すかまでは聞いてなくて」
親戚はわからないなら会へ尋ねればよいと言い、手帳の中から電話番号を探した。紗江が母の携帯を開こうとすると、暗証番号を教わっていなかったことに気づく。誰かが電話の履歴を見れば早いかもしれないが、いま本人のいないところで全部を確認する理由もない。手芸会へ伝えるのは母が亡くなったことと、持ち物を後日確認したいことだけにした。
昔からハルがよく使っていた鋏は、刃の根元へ小さな傷がある。紗江が洋品店を始めたころ、勝手に借りて怒られた鋏だった。借りたまま返していなければ、母の家の裁縫箱に今もあるはずがない。紗江は鋏を一度開閉し、刃を傷めないよう布で包んだ。ほかの人へ形見として渡すかどうかは、今月の仕事が片づいてから考える。
親戚の一人が「物置も片づけようか」と言い出し、紗江はそこだけは断った。明日の弔問客が使う座布団なら押入れにあるが、物置には母が生前に捨てないと決めた箱がある。「ほんなら今週は開けん」と親戚が言い、代わりに座布団の数を数え始める。紗江は足りない二枚を近所へ借りに行く約束をした。
夕方に親戚が帰ったあと、紗江は電話の充電器を探した。家の中で使うものの置き場所だけは、母にもっと聞いておけばよかったと思う。けれど、昨日一人で歩いていた母へ、亡くなる前だからと家の引き出しを一つずつ尋ねることなどできたはずもなかった。
玄関の布袋に入っていた家の鍵を、紗江は親戚へ預けた。夜に来る僧侶を迎えるため、誰かが開錠できるようにしておく必要があった。母の物を残したいという気持ちだけで家の用事を止めるわけにはいかなかった。
※
便利堂へ戻った透は、朝の修理の延期をもう一度電話で確認した。依頼人は、午前中に家を開けて待っていたという。透は事情を簡単に説明して別の日を提案したが、先方は金曜以降にしてほしいと言った。
受話器を置いたあと、予約用紙の控えを開く。宛先には、ハルの字で「トヨ」とだけある。名字も現在の住所もない。残っているのは、ハルが手紙をしまっていると言っていた家と、家族に用件を伝えるための番号だけだった。
透は受託の日付を書いた。今日を一日目とすれば、来週の月曜が七日目になる。
千鶴の勤務は明日からだった。透は彼女の伝票の上へ、予定変更のメモだけ置き、棚の扉を閉めた。




