第64話 予約の紙
七月も終わりに近づいた月曜日、榊便利堂の裏口には、網戸が三枚立てかけてあった。透は張り替えた網を乾かしながら、戸倉の工場から届いた棚金具の寸法を伝票へ写していた。
「一枚だけ、右上の角が緩いですよ」
千鶴が指で網を弾いた。先週の乾物屋の配達で、自転車の荷台から落とした荷物を拾ってくれた家のものだ。礼のつもりで値引きを申し出たところ、店の仕事を勝手に安くするなと母に叱られた。結局、正式な値段で便利堂へ依頼してもらっている。
「わかってる。そこは最後に締める」
「私が見つけるまで忘れてた顔です」
「こういう顔」
「いまの顔です」
透が工具を取ると、店先から「こんちは」と女の声がした。
宮下ハルは、片手に布袋、もう片方に折りたたんだ日傘を持っていた。三か月前まで足を運んでいた近所の手芸会が場所を移したとかで、今朝はその案内を届けて回ってきたという。
「ここも、すっかり物が増えたねえ」
「網戸の引き取りが夕方までに三件あります」
「千鶴ちゃん、あんたもよく働く。藤木さんに、昆布の注文は二袋でええって言うといて」
「はい。二袋ですね。便利堂の帳面とは別に書きます」
ハルは布袋を膝へ載せてから、透の前に座った。日傘の骨が一本曲がっている。修理を頼むのかと思い、透が手を伸ばすと、彼女は日傘を引いた。
「これは娘が直す。今日は別の相談で来たんよ」
ハルは、冬に立花トキがここへ来たことを知っていた。トキと親しかったわけではないが、ノブから、あの家では生きているうちに頼みごとをしたと聞いたそうだ。話を聞いてすぐ自分も予約したくなったのかと尋ねると、ハルは首を振った。
「そういうんでもない。元気なうちに来たほうが、あんたも困らんやろ」
「何を頼むか、もう決めてるんですか」
「相手だけ。トヨちゃんいう人」
透は予約用紙を一枚取った。相手の姓を尋ねると、ハルはすぐには答えなかった。
「今はどこの姓になっとるか、知らんのよ。ずっと前に町を出た。昔の住所やったら、わたしの家に手紙がある」
「その方がご存命かどうかも、確認できてないんですね」
「お互い、年も年やからなあ」
ハルは、その先を話す前に布袋から糸の束を取り出し、ほどけた端を結び直した。先日の会で頼まれた風呂敷の端縫いを、午後までに仕上げなくてはならないという。
「亡くなられる前なら、まずご本人へ電話することもできますよ」
「電話で済むなら、こんな紙は持って来ん」
言い終えたところで、ハルは少し照れたように笑った。強い言い方をしたつもりはなかったらしい。
透は、予約したからといって必ず最期の言葉を預かれるわけではないこと、預かってからは七日のうちに本人を探して対面しなくてはならないことを説明した。ハルは要所で頷き、日傘の柄を握り直した。
「相手が会いたくない言うたら?」
「そこで止まります。会えても受け取らないと言われたら、届いたことにはなりません」
「ほんなら、トヨちゃんの好きにしてもらう」
ハルは予約用紙の宛先欄に、自分で「トヨ」と書いた。詳しい住所は後日確認することにして、本人の連絡を受けるための番号だけ記入した。透が控えを渡すと、彼女は娘に叱られる前に帰ると言って立ち上がった。
帰り際、ハルが店先の網戸を眺めた。
「この網、きれいやね。うちのは十五年そのままやで」
「そこまでいくと、網より枠も見たほうがいいです」
「娘に言うとくわ。先に傘やけどな」
彼女は日傘を開かず、日陰を選んで角を曲がった。
※
その日の昼過ぎ、ハルの娘・紗江は、店から帰った母に日傘を見せられた。裾直しを引き受けている洋品店では、祭りの前に浴衣の寸法直しが重なり、今日は閉店まで残る約束をしていた。
「これ、骨から曲がっとる。今すぐは無理よ」
「ええ。今日は便利屋さんで予約してきたし」
「傘を?」
「別のこと」
ハルはそれ以上話さず、縫いかけの風呂敷を広げた。紗江は母の手つきを見て、まだ自分より縫い目が揃っているのを少し悔しく思った。
母が昔の家から持ってきた木箱は物置の奥にあった。紗江は母が自分で出すまで触るなと言っていたのを覚えていたので、今日は傘の曲がった骨だけ見て、明日の夕方なら修理できると答えた。
※
ハルが帰ったあと、千鶴は店の戸口へ落ちていた傘の先のゴムを拾った。ハルのものか、先週修理を頼んだ客のものかはわからない。作業台の端へ置くと、透が出してきた予約用紙の裏には金額を書く欄がなかった。
「普通の修理と違うんですよね」と千鶴が言った。
「まだ、正式に預かったわけじゃない」
「それでも、ここに来た人が誰に会いたがってるかぐらいはわかるでしょう」
「トヨさん。今どこにいるかは聞いてない。ハルさんも、知らないみたいだった」
千鶴はそれ以上尋ねず、夕方受け取る網戸の札を三枚作った。予約を取り消す電話が来ても、修理の客が受け取る時間は変わらない。透は網を張り直した一枚の縁を指で押し、たわみがなくなったことを確かめた。受け取りに来た男性は、もともと玄関へ取り付けるつもりだったと言い、店先で向きを合わせてみせた。
「縦と横、逆やと勘違いしとった」と男性が笑った。「車に積める?」
「脚立を動かしたら入ります。家までお持ちしますよ」
男性は積み下ろしだけ頼んで帰った。千鶴は配達代を請求書へ加え、ハルが残した予約の紙とは別の封筒にしまった。
その日の閉店間際、ハルから店へ電話があった。日傘の骨は娘が帰ってきてから見てもらうつもりなので、勝手に部品を注文しないでくれと言う。千鶴が承知すると、ハルは明日の自分の予定を確かめる声で「じゃあ、またね」と電話を切った。透は電話の内容を聞き、注文欄へ「保留」と記した。
千鶴は最後の網戸を配達した帰りに、乾物屋へ注文書を届けた。ハルが頼んでいった昆布は二袋で間違いない。母が配達日は明後日でよいかと尋ねたので、本人から急ぎとは聞いていないと答えた。年配の客が店へ寄ったからといって、すべてを特別扱いすればほかの注文が遅れる。彼女は店の勤務表へ自分の名前を書き、翌朝の段取りを確かめた。
すべての配達を終えて戻った千鶴は、集金先で客から受け取った小銭を金種ごとに数えた。透は修理を終えた網戸の領収書を探したが、今日に限って控えが一枚足りない。午前中にハルが使った机の上から見つかったのは、控えではなく千鶴が書いた昆布の注文票だった。「混ぜたら怒りますよ」と千鶴に取り上げられ、透は伝票箱の仕切りを一つ増やした。
ハルの予約用紙には、正式に預かることができる日まで何も書き足さなかった。透が裏返して棚へ入れると、千鶴はその上へ修理の伝票を重ねないよう小さな仕切りを置いた。




