第61話 聞く場所
月曜の朝、透は役場の資料室で二冊の目録を見比べていた。日付順のものと、地区ごとに分けられたもの。どちらにも十五年前の高潮に関する項目はあるが、同じ紙を指しているのかどうか、表題だけではわからない。
公開資料の担当が、申請した範囲の写しを持ってきた。牧野という職員だった。透が港東の欄を尋ねると、彼は元の記録と後から作られた集計表を別々に示した。
「こちらは公開用の整理表です。原票に個人名が載っている部分は、いま閲覧できる範囲を確認しています」
「同じ地区なのに、記録が二つあるんですね」
「受け付けた場所と避難所側で、まとめ方が違うんです。ひとつの記録からもう一方を全部説明できるとは限りません」
透は配られた閲覧用の紙に、新聞で見た発表の日付を書き込んだ。数が発表し直されたことはわかるが、その理由を旧い新聞一枚だけで決めることはできない。黒瀬が保管していた最初の救助便の証言にも、町の集計の手順までは書かれていなかった。
「今の時点で、確認できたことを知る方法はありますか」
「整理が終わって公表された部分から、順番に案内します。ご自分の控えとしてなら、この目録番号を書いておいてください」
透は許可された欄だけを写し、質問を終えた。別の閲覧者が地図の箱を借りたいと言って待っている。牧野も仕事へ戻らなければならない。透は受付で返却の確認を受けてから、表へ出た。
役場前の自動販売機で缶の茶を買い、駐車場の隅で飲んだ。今日の午後は、家の雨樋から水が漏れるという依頼がある。朝一番の閲覧は自分で申し込んだものだが、資料室に来た本当の用事と、七日目の預かりを片づけることは別だった。
※
待合の壁に、新年度の避難訓練の案内が貼ってあった。配られた紙の文字が小さく、義信は眼鏡を出して読み直した。受付の若い職員に、相談する部署を間違えたら別の窓口へ行けばいいと言われる。昨日のうちに自分で決めた用件でも、建物へ来てしまうと脚が少し重かった。
義信は同じ役場へ、透とは違う入口から入っていた。相談窓口で名前を告げ、十五年前に自分が書いた紙について事情を話したいと申し出る。案内された席には牧野ともう一人の職員がいた。楓の姿はない。
「当時、私が港東の連絡所で集計へ回す書類に印を付けました。紙の控えが自宅に残っていたので、見てもらいたいんです」
義信は日曜に書いた説明と、茶筒から出した古い紙を別々に渡した。紙がいつ作られたか、家へ持ち帰った理由をいま説明できるか、担当者から一つずつ尋ねられる。思い出せる部分は話したが、確認の取れない部分は空欄にしてもらった。
「久保田がまとめると言うたのは覚えてます。ただ、そこにいた全員が賛成したかどうかまでは、もうわかりません」
「あなたが印を押したのは、どの段階ですか」
「次の係へ回す前やったと思います。自分で四件を確かめた記憶はありません」
職員は書き取った内容を読み上げ、義信が言い直した二か所を修正した。古い紙は本人からの任意提出資料として扱い、写しを取ることと原本を返すことについて確認を取る。義信はその場で許可し、自分の手元にも説明の控えを残した。
「これを出したら、当時の数字は直るんですか」
「ご自身の説明も、照合する材料の一つになります。ただ、記録そのものとの確認が必要です」
「四件の人のこと、わかるんでしょうか」
「わかった範囲から扱います。いまここで、お約束できません」
義信は担当者の名刺を受け取り、席を立った。久保田が決めたという一言を受け取らないままでも、印を押したのは自分だ。役場へ来たのは、榊に言われたからではない。茶筒から紙を取り出してしまった以上、元の場所へ戻す気にもなれなかった。
外へ出ると携帯を取り出し、楓へ電話をかけた。
「今夜、榊くんに来てもらえるか」
『今日? ……父さん、聞くことにしたん?』
「うん。家で聞く。おまえも、帰れるならおってくれ」
『私がいた方がいいなら帰るよ。役場のことは、私には教えんでええから』
「それは担当の人から聞く」
義信が電話を切るころ、駐車場から出た透の軽トラックはもう見えなかった。義信は自分の足で帰り、昼飯を食べてから客間を片づけた。出しっぱなしだった湯飲みを洗い、古い茶筒を食器棚へ戻す。二度目の面会に備えて、何か気の利いたことを言うつもりはなかった。
※
午後、透は雨樋の継ぎ目を外していた。建物の持ち主から、午前の雨で玄関へ水が垂れたと電話があり、契約した範囲だけ先に直している。携帯が鳴ったのは、古いパッキンを外したところだった。
手を拭いて画面を見ると、楓から連絡が入っている。父が今夜六時半なら会えると言っていること、今日は自分も家へ戻ること。透は工具の片づけを終えてから返信した。午前の役場で何を見たか、楓から訊かれることはなかった。
便利堂へ戻ると、千鶴が明日届ける乾物屋の荷物を数えていた。今日は彼女の勤務日でもあるが、実家からの頼まれ事で少し残っているらしい。
「六時半に出るんでしたよね。さっき修理の電話が来たので、明日の朝でいいか確認しました」
「助かる。お客さんには俺からも連絡入れる」
「受け取ってもらえるといいですね」
「会ってからじゃないと、わからんよ」
透は帳面を閉じ、雨樋の工具を車から降ろした。久保田の雨戸の請求書は、美和が書いた送り先を確認してから封筒へ入れる。預かり屋の件がどうなっても、修理した事実はなくならない。
氷見家へ着いたとき、玄関を開けたのは楓だった。客間へ通されるまで義信の姿は見えず、透は靴を揃えて廊下を進んだ。敷居をまたいだところで、義信が立ち上がった。
目が合う。
「あれは俺が決めた」
言葉は最後まで出て、透の喉が普段の調子へ戻った。義信は立ったまま、返事をした。
「聞いた。受け取ります」
透は頭を下げた。義信がつづけて話し始めたので、椅子へは座らず、その場で聞いた。
「今日、役場で話してきたんや」と義信が言った。「十五年前、次へ回す紙に印を押したのは俺や。久保田が何を決めたにしても、その印までなくなるわけやない」
楓が客用の湯飲みを持ってきた。義信は三人分の座る位置を示し、昨夜から置いたままだった紙の束を、自分の席の脇へ寄せた。
「お茶、飲んでってください。今日は、最後まで用意してあるから」
透は客間の椅子へ座った。二度目の訪問で初めて、氷見家の湯飲みに茶が注がれた。




