第60話 未確認の四件
日曜日、義信は茶筒の底へ敷いていた紙を二枚取り出した。一枚は去年の防災訓練の当番表。もう一枚は、十五年前の夏に自分で書いた走り書きだった。何度も折りたたんだ縁が薄くなり、開くときに破れそうになる。
楓は朝食の食器を下げ、洗濯機を回していた。昨夜、父が久保田のことを少し話したいと言いかけたのを覚えている。だが義信は話を始める代わりに、家の防災袋から古い懐中電灯を出し、電池を替えて点くか確かめた。
「その電池、茶筒に入ってたやつ?」
「新品や。古いのはもう回収袋へ入れた」
「ほな、いいけど。さっきの紙、今日は見るの?」
「自分で見てから、話す」
義信は走り書きの折り目を指で伸ばした。途中で破れそうになり、古い新聞を一枚下へ敷く。近ごろは物の名前がすぐに出てこないことがある。十五年前の係の顔まで曖昧になっているとは、娘に話していなかった。紙を手に持つと、誰かが近くで押した判子の音だけが妙にはっきり思い出される。いま書き直す便箋には、確かめられないことを確かめたように書かないと決めていた。
義信が紙へ向き直るまで、楓は洗濯物を干しに庭へ出た。父が何かを思い出せば助けられると思う反面、父にとって都合のよい言葉だけを選んで聞くのも怖かった。
十五年前、港東の連絡所には避難した家からの電話が次々に掛かってきた。義信は住所を先に聞こうとして何度も聞き返され、人数の欄を埋めようとして場所を書き忘れた。隣の机にいた久保田と相談し、先に聞き取れた項目から書いてよいよう、用紙の空欄を広く取ったことは覚えている。
連絡所では一台の電話を取り合っていた。別の避難所からの連絡を待つ人が、受話器の横で小銭を数えていたことも覚えている。義信が書く係を交代すると、久保田は必要な項目だけを大声で読み上げた。そのときの順序が、いま自分の紙に残る時刻と合うのかどうかを確かめるには、ほかの記録が必要だった。
義信はその日、海へ出たわけではない。連絡所で紙を受け取り、次の係へ回していた。夜が明けるころ、まだ確認の取れていない報告をどう集計へ載せるか、何人かで話した。久保田が避難済みとしてまとめると言い、義信は次の担当へ渡す紙に印を付けた。誰からどの避難所の確認を取ったのか、そこを思い出そうとすると記憶が途切れる。
茶筒の紙に残っているのは、自分の字で書かれた「確認待ち四件」という短い書き付けだけだった。人の名前はない。あとから別の係が確認した可能性はあるが、確認したという記録を義信自身が見た覚えもない。
「父さん、昼、何か食べる?」
庭から戻った楓が声をかけると、義信は紙を畳まずに返事をした。
「うどんでええ。昨日の葱、まだあるやろ」
「あるよ。私は昼前に買い物行くから、先に食べとって」
楓は買い物かごを持ち、父の紙には触れなかった。義信も説明を始めなかったが、娘が出掛けたあと、空いている便箋へ当時の自分の役割を書き出した。紙の端に年月を書こうとして手が止まる。日にちはもう正確に覚えていないので、年月だけ記して、口頭で説明する際にもそのように伝えることにした。記憶にない人名は書かず、自分の持っている紙に日付がないことも明記した。久保田の死後になって急に整った話を提出しても、その話だけで当時の集計を直せるとは思わなかった。
午後、楓が帰宅すると、義信は封筒を食卓に置いていた。
「月曜、役場へ行ってくる」
「私に預ける?」
「その方が早いかと思うとったけど、おまえ、担当を外れたんやな」
「うん。父さんが出すなら、一般の相談窓口からお願い。私が職場で便宜を図ることはできんよ」
「わかっとる。どの紙を持っていったらええか、そこで訊いてみるわ」
義信は封筒を自分の鞄へ入れた。楓は明日の勤務を確認し、父の診察券が鞄の底に紛れているのを見つけて別の場所へ戻した。午後のうちに弁当の米を研ぐと、義信が持ち出した便箋の控えをもう一枚作ろうとしたので、自分で読んで間違いがないか確かめておくように伝えた。
「榊くんのことは、どうするん」と楓が尋ねた。
「まだ、決めてへん」
「明日で七日目やって」
「知っとる。あいつが来たら言葉を聞くかどうかは、わしが決める」
楓はそれ以上促さず、台所へ戻った。
夕方、義信は自分で書いた説明を読み返し、「全員で決めた」と書きかけていた一文を消した。会議の席にいた人数は覚えていても、声を出さなかった人まで賛成したと書けるわけではない。久保田に押しつけようと思えばできたかもしれないが、提出する紙は自分の名前で残る。印を押した事実だけは、誰かの代わりに取り消してもらうつもりはなかった。紙を役場へ持参することと、久保田の言葉を引き受けることは、父の中でもまだ別の用事らしかった。
※
同じ日の午後、野添は祭り会の倉庫で懐中電灯の点検をしていた。長机二台は修理済みで、残る一台には使用禁止の紙が貼られている。春になって集まる人が増える前に、雨天時の連絡表をもう一度書き直しておきたかった。
「黒瀬さんの番号、今の欄から消した方がいいですか」
「代わりに出られる人が決まってから。本人へも、いつなら手伝えるか確認せんと」
手伝いの青年へ野添が答えると、倉庫の時計は四時を指していた。会計担当から修理済み二台の請求書が届いたと連絡があり、野添は訂正後の金額を持出表の裏に控えた。払い込む日付は会計の判断になるので、納品した透へ自分から振込済みとは伝えられない。次の会合で未修理の一台をどうするか決めるため、使える二台と壊れた一台の写真も撮っておいた。古い器材を全部替えれば簡単だと言う人もいるが、予算の帳尻を合わせるのは当日の責任者だ。電池を替えても点かないものを二本、買い替えの候補として別の箱へ移した。
黒瀬から預かった十五年前の私的資料について、町から所在の照会が来ている。野添は、本人の許可がある範囲だけ写しを渡すことにし、保管簿へその日付を書いた。昔の祭りで誰が何を決めたのか、いまの祭り会が持つ書類だけで決められるとは思わない。
※
夜、透は金曜に届いた役場からの連絡を読み直した。申請した公開資料の目録は、月曜午前に閲覧できる。元の連絡票に個人名があっても、まだ外部への公開範囲は確認中らしい。
今夜、義信の家へ行く約束はない。透は作業車の燃料を確認し、翌日の午後に入った修理の工具を揃えた。久保田から預かった日は火曜日。月曜が七日目になる。台帳の配達欄は空けたまま、携帯を机の端へ置いた。




