第59話 娘の段ボール
久保田美和は段ボールの底が抜けかけているのに気づき、車へ積む前にガムテープをもう一周巻いた。古い手帳を入れただけのつもりだったが、箱を持ち上げると紙が思ったより重い。付き添ってきた夫が、後部座席の子どもの荷物を助手席へ移してくれた。
「今日はこれで二箱目やな。あと何箱あるん」
「数えたくない。あの押入れの上、まだ全部見てへんし」
「お義父さん、紙を捨てへん人やったな」
「電話番号のメモまで取ってある。もう誰の番号かもわからんのに」
葬儀を終えた最初の土曜。美和は実家の片づけに来ていた。父が毎年届けていた金柑の籠が玄関に残っている。近所へ配るつもりだったのか、傷んだ実をより分ける途中だったのか、聞いておけばよかったと思うことはいくつもある。ただ、それを確かめるために今朝から押入れを開けているわけではなかった。
奥の棚は真ん中が下がり、箱の角が板へ食い込んでいた。夫に手を貸してもらい、一番上の軽いものから下ろす。父が便利堂へ修理を頼みかけていた棚は、箱の重さを減らさないと触れない状態だった。
「業者さんへ、棚の続き頼む?」
「今すぐ直してもらっても、この家に誰が住むか決めてへん。まず荷物を減らしたい」
「ほな、見積もりの話は断るか」
「今日、榊さんが来る。雨戸のお金のこと聞くついでに伝えるわ」
箱の一つに、茶色い紙を巻いたノートがあった。表紙の裏に父の名が書かれ、家計簿とも仕事の覚書ともつかない数字が並んでいる。十五年前の八月の頁には、新聞の切り抜きが挟んであった。美和は紙を引き抜かず、栞代わりに入っていた広告の裏で日付だけ控えた。
夫は書類を見せてほしいと言いかけたが、美和が今日は封をして持ち帰ると決めると、別の箱へ手を伸ばした。家の名義をどうするかは親戚と話さなければならないし、父が仕事で預かっていた紙なら、美和だけで処分してはいけない。
隣家の人が庭先へ出てきた。去年父に貸した脚立がまだこちらにあるという。美和が謝ると、隣人は今度使うのは来週だから急がなくていいと答えた。夫が物置から探し出した脚立の開き止めを確かめ、借りた人の家まで運んでいく。
「金柑、今年は採らんのか」と隣人が聞いた。
「まだ手が回らんくて。父は毎年いつ頃、配っとりました?」
「三月の終わりまでには、だいたい。枝切るなら手ぇ貸すよ」
「日を決めたら連絡します。勝手に全部切ったら親戚にも怒られそうやし」
隣人は、父が去年の夏にはまだ一人で枝を落としていたと教えてくれた。脚立を借りたときには、もう少し低いものに替えた方がいいと勧めたという。美和はその話を聞いて、今度来るときは脚立を新しく買う必要もなくなったのだと気づいた。夫が先に車の戸を開けて待っていたので、それ以上立ち話はせず、来週の都合を連絡するとだけ約束した。
美和は自分の携帯へ予定を入れた。父が住まなくなった家でも、人と取り交わした約束は残っている。
※
午後、透は修理代の件で久保田家を訪ねた。家族の連絡先へ先に電話し、今日なら美和がいると確認してある。雨戸はきちんと閉まっていたが、軒の下には使わなかった交換部品の箱を置いた跡が残っていた。
「戸車は元のを使いました。レールの曲がりを直したので、請求は作業代と出張分だけです」
「父、いくらか安うなると喜んどったでしょうね」
「そうですね。棚のほうは寸法も測れてません。ご希望なら別の見積もりを出します」
「棚は当分このままにします。箱を先に下ろすので」
美和は郵送先を便箋に書いて渡した。自分の家の住所と、書類を送るときに使ってほしい名前。透はその場で読み直し、誤字がないことを確かめた。
「父が倒れたとき、そばにおったそうですね」
「救急へ電話しました。ご家族への連絡は、隊員に確認してからです」
「ありがとうございました。父が言い残したこともあるって聞いたんですけど、私には教えてもらえへんのでしょうか」
透は持っていた見積もりの控えを鞄へ戻した。美和が当然と思える問いだったが、久保田が呼んだのは娘の名ではなかった。
「宛先を指定されていました。まだ、ご本人には受け取ってもらえていません」
「そうですか。私が誰かを探す必要は?」
「いまのところ、ありません。お父さんが大切にしていた物の整理もありますし、そちらを先に」
美和は頷いたものの、すぐには玄関へ戻らなかった。透の答えが気に入ったわけではないだろう。娘として聞きたいことがあるのに、業者として来た人からはこれ以上聞けない。それでも彼女は修理の請求先をもう一度確認し、封筒を受け取った。
透は家を出るとき、押入れの板が外れるようなら下の箱に触らないでほしいと伝えた。修理の相談なら後日でも受けられる。美和は父の工具箱から長い釘を見つけたので、今日はそれを使わずに戻しておくと言った。
※
夕方、便利堂で透が棚下から新聞の束を引き出した。以前、立花家から了承を得て預かった、十五年前の八月の地方紙だった。ずっと紐をほどかずにいたが、黒瀬の私的な証言と今回の久保田の依頼が重なり、当時の報道がどこまで残っているか確認したくなった。
記事には、高潮のあと避難所ごとの人数が数度にわたって発表し直されたとある。小さな但し書きには集計中とあり、どの世帯がどこへ避難したかまでは載っていない。透は新聞の切り口を揃えて古い地図の記事を探したが、港東の道路がいつ通れなくなったかについても、日付は記事によってまちまちだった。
そのうち、一枚の下端に「前日の発表を訂正」と印刷されているのを見つけた。誰が訂正を指示したかは書かれていない。透は発行日を控え、読んだ頁と未読の頁を分けた。新聞の数の違いを、そのまま失われた家族の数だと決めるわけにはいかない。
千鶴から電話が来たのは、乾物屋の閉店準備をしているころだった。来週の試食用昆布の追加分について、包装を依頼した側から変更の連絡があったという。
『うちの母にまた、便利堂の仕事と混ぜるなって言われました。追加分は乾物屋で受けていいですよね』
「お前が見積もり出した分だろ。そっちで頼むよ」
『そうします。あと久保田さんの雨戸代、請求先だけ明日の帳簿に書いときますね』
「住所は先方の許可をもらってある。店の伝票へ写しとく」
電話を切ると、透は新聞の端を揃え、今日読んだ三枚にだけ細い付箋を挟んだ。美和に送る修理代の控えは、別の封筒に入れて引き出しへしまった。




