第58話 二冊の台帳
金曜の朝、楓は窓口が開く前に牧野の席へ向かった。前日までの勤務表には、自分の名前が災害関連の旧文書整理にも載っている。付箋を貼っておいた箇所を指し、担当から外してほしいと頼んだ。
「父が、当時の連絡の仕事に関わっています。昨夜、久保田さんの件で本人から話を聞きました」
「ご家族の件か。言える範囲でええけど、楓さん自身は文書を見た?」
「いいえ。まだ目録の準備だけです」
「それなら、ここで替えよう。窓口の仕事は予定どおり頼むよ」
牧野は赤ペンで勤務表を訂正し、別の職員へ声をかけた。先月、祭りの係から昔の開催記録の取扱いについて照会があり、町でも関連文書の所在を調べることになっていた。祭り会から届いた紙はあくまで個人提供資料で、役場に残る当時の記録とは保管先も作成者も違う。
「お父さんの話、聞き取ることになったら、うちから正式に連絡する。楓さんを間に挟まんようにするから」
「お願いします。家で何を話すかは、父と相談します」
牧野は頷き、いま電話の多い部署の手伝いへ人を一人回した。資料の照合だけを優先して窓口が止まるわけにはいかない。楓は番号札を補充し、八時半に来た住民の転居届を受け付けた。
※
同じころ、透は航の工場で部品棚の補強金具を取り付けていた。二月末に持ち込まれた予備ナットの箱は、先週、合う蝶番を取り寄せて返してある。今日は別の棚の仕事だ。棚板を一度外すと、奥からいつのかわからない領収書と、片方だけの作業用手袋が出てくる。
「領収書は取っとけよ。たまに税理士さんに訊かれるやろ」
「お前、それ言うなら自分の先月の請求書どうなった」
「払った。千鶴ちゃんから領収書ももらった」
航は作業着のポケットから折れた紙を出し、透の前へ突き出した。受領印の横に千鶴の小さな文字がある。透は今日使った金具を数え直して、新しい伝票にだけ追加分を書いた。注文を受けていない棚の側面まで直してしまえば、あとで言い訳が必要になる。
「氷見さんのとこ、最近顔出したか」
「久保田さんが亡くなったことで、伝える用事があった」
「楓もこの前、車を取りに来てた。あそこの親父さんは昔から頑固やからな」
「誰から聞いたかはいいけど、仕事の中身は話せんよ」
「わかった。棚は、午後の車が来るまでに頼む」
出掛ける前に透は、長机の修理代の件で祭り会へ送った訂正請求書を思い出した。先月末に運搬費を二重計上していると気づき、あらためて出し直してある。昨日、千鶴から受領の連絡が来たが、入金の知らせはまだない。訂正前の控えをそのまま使って次の請求を出さないよう、店へ戻ったら封筒の色を替えるつもりだった。
航はそれ以上聞かず、工具を片づける場所だけ指示した。透は棚のぐらつきを確かめ、追加の金具については見積もりを出すと約束して帰った。久保田から預かった言葉は、拒まれた夜のまま残っている。言葉を押しつけに氷見家へ行くため、予約済みの仕事を急に投げ出す気にはなれなかった。
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役場の地下の保存室で、牧野は移管票のついた箱を二つ並べていた。十五年前の高潮に関する連絡票と、翌朝の集計版。箱の表紙は似ているが、作成した部署は別で、引越しの際に振られた管理番号も違う。若い職員が旧番号を端末へ入れてみると、画面には該当なしと出た。
「廃棄済みですかね」
「いま箱がここにあるでしょう。新しい番号へ移っただけかもしれん」
牧野は箱の側面に残る移管票をめくり、旧番号と新番号を別の欄へ写した。封筒の中を扱えるのは、担当として許可を受けた職員だけ。資料の補充に来た臨時職員には、閲覧用の机を拭く仕事を頼んだ。
当日の連絡票は時刻順に綴じられ、電話がつながらなかった記録も混じっている。翌朝の集計版は避難所ごとの人数が先に書かれていて、世帯名の欄がない頁もある。牧野は同じ地名が出てきても、すぐ一本の線で結ばなかった。港東という地区名だけでは、同じ窓口からの報告かどうか判断できないからだ。
「原票の順番、ここで飛んでますね」
「綴じ直した跡がある。前後に番号があるか、まず確かめよう」
「翌朝の冊子には、避難済みって付いた集計がありますけど」
「向こうの頁と対応するとはまだ限らん。その付箋だけ色を変えといて」
昼休みを挟んで二人で照合し、終わらなかった分は元の順に戻した。牧野は撮影した頁の一覧に、今日確認したものと未確認のものを分けて記入する。コピーの束から原本が一枚消えたときのことまで考えると、順番を書き残す作業を省くわけにはいかない。
牧野は異なる二冊を照らすため、職員へ一覧表の作成を頼んだ。最初に書くのは日付と出典と、そこに何と書かれていたかだけ。連絡票の時刻と集計の時刻が違う場合、翌朝に書き直された数字を元の紙へ上書きしてしまうと、あとから調べる人が元の数字を追えなくなる。
そこまで話したところで、上の部署から別件の会議資料を作ってほしいと電話が入った。牧野は予定していた作業の終わりを一時間延ばし、古い紙に付けた付箋を一度全部見直してから箱を閉めた。役場の仕事をする以上、日付の曖昧な紙を片づけるために、今日作るべき報告書を後回しにするわけにもいかなかった。
午後、閲覧申請の担当から連絡が来た。榊便利堂の榊透という人が、公開されている昔の災害資料を見たいと申請したという。個人名が載る原票はそのまま見せられないが、公開済みの目録と整理表の写しなら用意できる。
「月曜の午前に案内できるか、聞いといて」
「そのころまでに、新しい事実が出てたら?」
「公表できる段階になってから渡す。申請者が誰でも、同じやり方で」
牧野は申請用紙の端へ日付を書いた。黒瀬から祭り会へ寄託された私的な紙も、外部から寄せられた証言も、いま目の前の原票の代わりにはならない。
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夕方、楓が帰宅すると、義信は自分の茶筒を食卓の端へ寄せていた。米は炊いてあるが、味噌汁はまだ鍋に入っていない。今日は楓の方が先に帰ったらしい。
「今日は、こっちで作ろうか」
「豆腐を買うてきた。冷蔵庫にある」
「父さん、昨日のこと、まだ怒っとる?」
「榊くんにか。それとも久保田にか」
「どっちにも答えんでええよ。私、あの資料の担当から外れたから」
義信は使いかけの醤油差しを食卓へ戻し、しばらく黙っていた。それから豆腐を切る包丁を研ぎ始めたので、楓は鍋を火にかけた。家で父へ質問することと、職場で父の書類に触ることを分けた以上、返事を急がせる理由はなかった。
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透の携帯には、月曜午前の閲覧案内が届いていた。彼は店のホワイトボードへ資料室へ行く時間を記し、午後の客との約束は動かさずにおいた。




