第57話 受け取りません
氷見家の門は、内側の留め金が高いところに付いている。子どものころは楓に先に入ってもらわなければ開けられなかった。二十七歳になった透には難なく届くが、今日ばかりは庭へ回らず、玄関の呼び鈴を押した。
午後は、商店街の花屋で漏れていた水道のパッキンを替えていた。透が作業を終えると、店主は明日の仕入れに間に合って助かったと何度も言い、帰り際に花の苗を一つ持たせようとした。
「苗はいいです。枯らしたら、次に来づらいんで」
「なら、その分は次の水道代から引いといて」
「それも困ります。請求書はちゃんと出しますから」
店主が笑いながら送り出してくれたあと、透は車の中で氷見家との約束を確かめた。修理先の客へ説明するなら、工具と領収書があれば足りる。今夜は一言を預かって来るだけで、その前後に何を訊かれるかはわからない。言葉の中身を自分から確かめることもできず、結局、伝票入れをいつもの場所へしまって車を出した。
約束の木曜、六時半。楓はまだ仕事から戻っていないらしく、玄関の灯りだけが点いていた。戸を開けた義信は、透の顔を見る前に靴を揃える場所を指した。
「上がってもらおうか」
透が顔を上げた瞬間、久保田の声が口を通った。
「あれは俺が決めた」
義信は廊下を一歩も進まず、透を見た。手には、四つに折った古い紙を持っている。透は自分の喉が元へ戻るのを待った。相手に会えば言葉が出ると説明してあっても、準備ができたところで話し始めることはできない。
「久保田さんから預かった言葉です。俺は、何を決めたことなのか知りません」
「……あいつは最後まで、そういう言い方をしたんか」
義信は紙を握ったまま、客間の方へ目を向けた。茶は用意してあったらしい。棚の上に急須と湯飲みが二つ並んでいる。それでも義信は透を通さなかった。
「受け取らん。帰ってくれ」
「わかりました」
「自分で言いに来ることもできんようになって、いまさらあんな言葉を寄越すんか」
透は靴を履いた。伝えられた言葉の意味を尋ねようとは思わない。ただ、受け取りを拒まれたことだけは、自分の帳面へ正しく書かなければならない。
「俺に事情はわかりません。けど、久保田さんが最後に呼んだのは、義信さんの名前でした」
「知っとる。もうええ」
義信は玄関の扉を押さえたまま動かなかった。透が外へ出ると、門の向こうで自転車のブレーキが鳴った。楓が鞄を肩から下げ、こちらへ急いで歩いてくる。
「透さん、もう帰るの?」
「今夜はここまで。お父さんに、無理をさせたくない」
「……私、呼んだのに間に合わなかった」
「時間どおりに来たよ。楓のせいじゃない」
透は義信にもう一度頭を下げ、門を出た。小さいころの癖で勝手口へ向かいかけてから、停めてある軽トラックへ足を向ける。楓が門の外までついてきたので、運転席の窓を下げた。
「父さん、受け取らなかった?」
「うん。言葉は出たけど、受け取らないって」
「じゃあ、まだ預かってるんだね」
「そうなる。次の約束は勝手には入れないよ」
楓は鞄の持ち手を持ち直した。昨夜の父は会うと言い、湯飲みまで用意していた。それを透へ話しても、父が今夜拒んだ事実は変わらない。
「父さんには、私からも聞きたいことがある。でも、そのために透さんを呼ぶのは違うと思う」
「楓が話すことまで、俺の仕事にはできない」
「……うん。私が家へ戻って聞いてみる」
※
透が車を出すとき、楓はまだ門のそばにいた。見送ってから玄関へ戻ると、父は客間の湯飲みを流しへ運んでいた。二つとも空のままだ。
「お茶くらい出してもよかったのに」
「お茶飲んだら、今夜あの話を聞いたことになるんか」
「ならんよ。私が呼んだ客やから、そう言うただけ」
義信は水道を止め、湯飲みを伏せた。楓は父の隣で手を洗い、買ってきた電球の袋を棚へ置いた。約束したことは、今日も二人で暮らす家の中に残っている。
「父さん、あの紙、昨日から持っとるね」
「昔の仕事の走り書きや。人へ見せるほどのもんじゃない」
「私には見せなくてええ。でも、自分で覚えとることなら、いつか話してほしい」
「おまえが役場におるからか」
「娘やから聞きたいこともある。役場の仕事で扱うことは、私が決めたらあかん」
「久保田さん、家ではどんな人やったん」
楓が尋ねると、義信は手にした布巾を折り、濡れた指を拭いた。
「家のことは、わしもよう知らん。仕事場では、時間にうるさい人やった。電話の横の時計が五分遅れとるだけで、わしらがみんな怒られた」
「父さんも怒られたん?」
「わしが直せと言われた。時計屋でもないのにな」
義信は少し笑い、すぐに口を閉じた。楓は久保田が亡くなった日の話へ戻さなかった。父が覚えているあの人のことは、記録の集計だけではないのだろう。それでもどんな仕事を一緒にしたのかは、まだ本人の口から聞けていない。
「昔の仕事のことを話したくなったら、私は家で聞くよ」
「昔の話やから、もう言わんでええってことでもないんやな」
「父さんが話せるところからでいい。けど、私には私の仕事があるから」
義信は手にした古い紙を、食卓へ広げずにポケットへ戻した。楓はそのまま流しの茶碗を片づけた。
義信は椅子へ座り、夕飯を温め直した。楓は冷蔵庫から昨日の漬物を出し、残りの味噌汁を二つの椀へ分ける。食べ始めても、父は久保田と何を決めたのか話さなかった。
「楓、明日も仕事やろ」
「うん。古い資料の整理に当たる予定やったけど、担当を替わってもらうつもり」
「なんで、そこまでする」
「父さんが当時の仕事に関わっとるなら、私が調べて結果を出すのはおかしい。牧野さんに相談する」
義信はしばらく食べずにいたが、やがて味噌汁を飲んだ。父が許可を求めてきたわけでも、娘が父の過去を裁いたわけでもない。楓は聞きたいことを残したまま、明日の勤務表を確かめる。
※
同じ夜、便利堂に戻った透は修理代の伝票と預かりの帳面を別々に開いた。今日の欄には「受領拒否」と書き、配達済みの日付は空けておく。久保田の雨戸の請求先について、美和から連絡が来ていた。親族へ請求書を送ってよいか、もう一度確認してから記入するつもりだった。
工具箱の蓋を閉めると、氷見家に来客用の湯飲みが出されていたことを思い出した。義信は話を聞くつもりで待っていたのだろうか。それとも、娘に言われた手前、湯だけ沸かしていたのだろうか。透にわかるのは、扉が開いた瞬間に言葉を届け、義信がそれを拒んだところまでだ。
千鶴が作業の予定を書き込んだホワイトボードには、明日、航の工場へ行く時間が残っている。透は伝票をしまい、金具の数を確認してから店の灯りを消した。




