第56話 父の食卓
役場の窓口が混む日は、番号札の補充が追いつかなくなる。氷見楓は午前の受付を一つ終え、引き出しの底から予備を取り出した。転入の手続きに来た人が古い住宅地図について尋ねてきたので、閲覧できる資料室を案内する。十五年前の港の道を探していると言われても、窓口にある現在の地図で昔の道筋を指し示すわけにはいかなかった。
「資料室の開いている時間、ここに書いてあります。写しが要るときは、係の人に範囲を伝えてください」
「今日、すぐ借りられるんですか」
「持ち出せる資料かどうかは確認が必要です。閲覧だけなら、いま案内できます」
男性は用紙を折り、受付の前で家族へ電話を始めた。次の人が待っていたので、楓は通話が終わるまで別の窓口を開けてもらった。昼休みになって私用の携帯を見ると、昨夜の透からの連絡と、今朝の追加の一通が入っている。
『久保田さんの件で、お父さんに会って話したい。帰ってからで構わないから、相談させてほしい』
久保田が亡くなったことは、町内の知人を通して義信にも伝わっていた。透が現場にいたと知っても、父の名前が出てくる理由までは楓にはわからない。昼のあいだに父へ電話しようとしたが、今日は勤め先の人から渡す書類もあり、実家で顔を見てから話すことにした。
昼が近づいたころ、隣の席の職員から来週の遅番を代われないかと頼まれた。子どもの学校で面談があるらしい。楓は自分の予定表を開き、家の用事と重ならない日を選んで交代した。父の件が気になっても、職場の人へ事情を詳しく話す必要はない。
「急に頼んでごめん。来月、そっちの当番で返すわ」
「そのときは頼む。代わりに今日、先に休憩出ていい?」
楓は同僚に窓口を任せ、給湯室で昨日買ったパンを食べた。透へ返事を書く指が止まる。父の了承もないうちに、会う日程を自分だけで決めるのはやめた。
午後は老人会の会場使用について問い合わせが続いた。予約可能な日を尋ねる人と、使い終えたあとの清掃当番を確認する人が別々に来る。楓は施設利用案内の該当頁へ印を付け、担当部署の電話番号を教えた。勤務中に父の昔の仕事を調べようと思えば、何かしらの端末へ辿り着けたかもしれない。しかし今日楓に割り振られた仕事は、申請者に必要な手続きを案内することだった。
帰宅すると、義信は茶筒を食卓へ置き、中から乾電池と古い輪ゴムを取り出していた。茶筒は茶葉を入れていたころから蓋が固く、父は捨てようとするたび、まだ何か使い道があると言い張る。
「資源ごみ、明日やったか」
「うん、木曜日。電池は別の日だから一緒に出さんといてよ」
「輪ゴムは」
「それは普通のごみ。父さん、夕飯の前に全部広げんといて」
義信は輪ゴムだけ小皿へ移し、茶筒を脇へ寄せた。楓は買ってきた豆腐を冷蔵庫へ入れ、鍋の味を見た。今日は父が早く帰っていたので、出汁を取るところから任せていた。味噌はいつもより濃かったが、言えば次から変わるだろう。
「久保田さん、亡くなったんだね」
義信の手が箸入れの上で止まった。
「聞いた。娘さんが戻っとるらしいな」
「透さんが、昨日あの家で作業していたって」
「榊くんが?」
「うん。最後にそばにいたんだって。父さんと話したいって連絡が来た」
義信は箸を戻した。久保田とは町の連絡の仕事で顔を合わせたことがある、とそれだけ言った。楓は鍋の火を弱め、なぜ透が父に会いたいのか、まだ確かめていないと伝えた。
「ほな、電話で訊いたらええやろ」
「電話だけでは済まない用件みたい。預かり屋のほうだと思う」
「……久保田が、俺に?」
「宛先の名前は本人が言ったらしい。中身は私も知らないよ」
義信は茶筒を食器棚の方へ押した。中に残った紙が縁に引っかかって蓋が浮いていたので、楓が直そうとすると、父は自分でやると言って手を伸ばした。
夕飯を食べているあいだ、父は新聞の折り込みに載った新しいスーパーの営業時間の話をした。楓も明日の帰りに買う電球の型番を尋ねた。浴室の灯りが暗くなっているのに、父は踏み台を持ち出そうともしなかった。
「昨日から切れかかっとるんやけど、電球を買いに行くのが面倒でな」
「箱が残ってたら見せて。写真だけやと口金がわからんことあるから」
「おまえが帰りに寄るんか。ほな頼む」
食後、義信が流しに食器を運び、楓は自室から透へ電話をかけた。相手の店はちょうど閉めるところらしく、シャッターの音が混じっている。
「久保田さんから何か預かったんだね」
『そう。義信さんの名前を呼んだ。楓が知ってるからって、いきなり伺いたくなくて』
「私が父さんに確認するよ。いま同じ家にいる」
『言葉の中身は伝えられない。本人と顔を合わせると、俺が止めようとしても出る』
「そのことも言う。聞くかどうかは父さんに決めてもらう」
楓が階下へ戻ると、義信は新聞を畳んで台所の卓上へ重ねていた。父には透から聞いた範囲だけ伝え、面会の約束を取る前に、顔を合わせた瞬間に言葉が出る仕組みを説明した。
「わしがまだ話す気になってなかったら、どうなる」
「会わないことはできる。だけど会ってしまったら、言葉だけ先に出るんだって」
「うまい逃げ道を残してくれん仕事やな」
「会わないなら、そう返事するよ」
義信はしばらく台所の暦を見ていた。明日は夕方まで知人の家へ行く予定があり、戻るのは六時過ぎになるという。楓の都合まで決めるつもりはなさそうだった。
「六時半。玄関から来てもらおう。聞いたあと何をするかまでは約束できん」
「うん。それで伝える」
父は洗って伏せてあった湯飲みを二つ取り出し、客間の棚へ置いた。楓はその片方が長いこと使われていない客用の湯飲みだと気づいたが、何も言わず、自分の携帯から透へ時間を送った。
話が終わると、義信は明日の知人との約束を確認するため電話をかけた。相手は港から離れたところに住む古い友人で、近所の畑を手伝う予定だという。六時までには戻ると伝えてから、父は暦へ赤い印を付けた。楓はその電話の相手が誰かを尋ねなかった。父には、自分の知らない用事も仕事もある。久保田の話を聞くために明日の予定を全部取り消させる必要はなかった。
電球の箱は、浴室の引き出しから見つかった。楓が買い物メモへ型番を書き写すあいだ、義信は茶筒の底から一枚の紙を抜き、誰にも見せずに上着のポケットへ入れた。楓は明日仕事が終わったら、その足で電球を買って帰ることにした。




