第55話 戸車の音
久保田の家の雨戸は、途中まで引くと決まって同じ場所で止まった。戸の下へ手を入れて持ち上げれば通るらしいが、そのたび古い木枠が軋む。透が何度か動かしていると、久保田は縁側から身を乗り出した。
「もうちょっと右へ上げるんよ。そうそう。わしは毎朝そうしてる」
「上げて通るうちはいいですけど、戸車の軸が減ってます。いつか引っかかったままになりますよ」
「三年前に替えたんやぞ」
「そのときの部品が残ってたら、見せてもらえますか」
老人は台所の引き出しから、小さな紙袋を持ってきた。ねじ二本と、もう使えない戸車が一つ。袋には三年前の日付が書かれている。透は新しく持ってきた部品と寸法を比べた。使わずに済むなら、そのぶんは請求から外せる。
三月の二週目、火曜日。朝に降った雨が上がり、庭の金柑にはまだ水滴が残っていた。透は雨戸を外して縁側に寝かせ、溝へ固まった砂を小さな刷毛で払った。去年の強い風で入り込んだものらしく、見えない角から湿った土が出てくる。久保田は拾った砂を見て、庭のどこから飛んだんやろう、と首をかしげた。
「塀の外に、去年崩れたところがあるでしょう。あの辺りかもしれません」
「あそこも、直してもらわなあかんな」
「まずは今の雨戸です。塀は見積もりからやり直しですよ」
「なんや、いっぺんに済まんのか」
「塀まで今日直せたら、俺のほうが困ります」
久保田は笑って、茶を淹れに台所へ戻った。透は戸車を洗い、まだ使える方の軸だけを磨いた。もう一方も替える必要があると見ていたが、砂を落としてみると回転は悪くない。レールの曲がりを先に直せば、新品は一つも要らないかもしれなかった。
茶を運んできた久保田は、縁側に腰を下ろすと押入れの棚の話を始めた。奥の箱を出そうとしたところ、棚板の真ん中が下がっていて動かせないという。
「そっちは写真だけ撮って、後日見積もります。何を載せてますか」
「昔の帳面やら、雨合羽やら。もう見ん紙ばっかりや」
「紙の箱は重いですから。棚板に手をかけないで、そのままにしておいてください」
「わしが棚へ手ぇかけたら、余計壊れるか」
「棚のほうが、先に負けそうですね」
久保田は空になった湯飲みを持って立ち上がり、段差を確かめて屋内へ戻った。透は茶を一口だけ飲んでから、戸をレールへ戻した。古い枠の片側だけが湿気で膨らんでいる。戸車を替えればすべて解決するという見立ては、ここで捨てた。
昼前になり、三度目の開閉でようやく引っかかりが消えた。透が久保田を呼ぶと、老人は居間から出てきて雨戸を動かした。最後まで閉まると、今度はわざと勢いよく開けようとする。
「そんなに強くやると、また外れます」
「試さんと、明日動かんかったら困るやろ」
「試すなら、普段の力でお願いします」
透は敷居の向こうへ回り、戸の端が柱へ当たらないか確かめた。久保田は手すりのない縁側を気にして、娘が帰ってくるたび危ないと言われるのだとこぼした。手すりの取り付けは玄関にも関わるので、勝手に工事を増やすわけにはいかない。
「美和が来たら、いっぺん一緒に話聞いてもらおうかな」
「それがいいと思います。家族の方と取り付ける位置を決めてからでないと、かえって邪魔になることもあります」
「来週やったかな。美和、金柑も採ってくれる言うてたし」
久保田は台所に掛けてある暦を確かめに行きかけ、今日は棚の方を先に見てもらわなあかん、と引き返した。透は手すりの概算だけ伝票の余白に記し、正式な見積もりとは区別した。
久保田は引き方を変え、もう一度ゆっくり戸を動かした。これなら朝でもできると言い、透の伝票を覗き込む。新品を使わずに済んだと伝えると、老人は節約できた分で押入れも直せるな、とすぐに次の仕事を決めかけた。
「そこは寸法を測ってからです。箱が崩れてきそうなら、俺が押さえます」
「ほな、こっちや」
久保田は廊下を先に歩いた。建て増しした奥の部屋だけ敷居が高く、片手を柱について足を上げたところで、急に膝が折れた。透は工具袋を床へ置き、倒れかけた体を支えた。
「久保田さん。聞こえますか」
老人は目を開けているのに、透を見ていなかった。右手で透の袖を強く握り、短い息を繰り返している。透は携帯で救急へ連絡し、住所を伝えたあと、教えられた順に久保田の状態を説明した。玄関の鍵を開けておくよう言われ、廊下から届く位置に靴を寄せる。
久保田が袖を引いた。顔を近づけると、かすれた声で人の名を呼んだ。
「氷見……義信に」
次の声は、耳から入ったものとは違う場所に残った。
「あれは俺が決めた」
透は返事をしなかった。老人の手が緩み、袖から離れたのを見て、携帯を持ち直す。救急の担当者に呼吸の変化を伝え、玄関へ走った。隊員が到着してからは指示された範囲で廊下の敷物を寄せ、搬送の邪魔になる脚立を外へ出した。救急隊員が玄関に貼られた緊急連絡先を確かめ、娘への連絡を引き受けた。透は搬送先の病院名だけを控えた。
救急車が発つと、久保田の家は戸を開けたまま静かになった。透は縁側へ戻り、道具の数を数えた。測っていない押入れの棚には触れず、濡れた刷毛と未使用の交換部品を別の袋へ入れる。戸が動くようになったことを確認できる人は、いまここにいない。
隊員が搬送したあとには、近所の人が開いている門を見て声をかけてきた。透は病状に関する説明をせず、家族が来るまで門が開くことになるとだけ話した。勝手に家の中へ入って手伝おうとする人もいなかったので、工具と交換部品の入った袋を車へ積み、窓の施錠だけ家族からの返事を待った。久保田の仕事用の紙が押入れにあることも、今日の請求とは関係がない。
夕方、美和と名乗る娘から連絡があり、病院で父の死亡が確認されたと聞いた。家の鍵を預かっている親族が到着するので、工具を回収できたなら施錠は任せてほしいという。透は作業代の請求を急がないと伝え、雨戸について何かあれば連絡してもらうことにした。
便利堂へ戻るころ、千鶴から乾物屋の配達帰りに寄るという連絡が入った。今日は便利堂の勤務日ではない。透が戸を開けると、千鶴は自分の店の伝票を持ったまま立っていた。
「雨戸、終わりました?」
「そこまでは。お客さんが搬送されて、亡くなった」
千鶴は伝票を鞄へ戻した。透は仕事の帳面を開き、交換部品の欄に斜線を引く。預かりの帳面には、火曜日の日付と久保田の姓、老人が呼んだ宛先の名を記した。妻や娘の名ではないことを確かめるのは、電話帳ではなく本人との話になる。
「氷見義信って、楓のお父さんですよね」
「名前はそうだ。ただ、こっちが決めつけて行くわけにはいかん」
「じゃあ、まず楓さんに確認ですか」
「今日はまだ役場だろ。家へ帰るまで待つよ」
千鶴は仕事用の帳面だけを預かり、明日の勤務日に整理すると言った。透は部品の袋を棚へ戻してから、楓に用件を尋ねる短い連絡を送った。千鶴は明日の配達表を置いて帰り、透は楓からの返事を待ちながら店の電気を消した。




