第53話 最初の舟
週明けの月曜日、透は祭りの机の納品書を公民館へ届けに行った。受付では、野添が先週の議事録を封筒に入れている。請求書は土曜に渡してあるので、今日は納品した二台の番号を照らし、会の会計から決められた支払日に振り込むことだけ確かめた。
「黒瀬さんが、あとでお話したいって言ってましたよ。連絡先、知ってます?」
「名刺をもらってます」
「じゃ、俺からはそれだけです」
野添は、預かった紙の中身を尋ねられると思ったのか、書類を伏せた。透は机の運搬費だけを確認し、会議室を出た。黒瀬の予約について、野添に話す用事はない。
店へ戻る途中、黒瀬から電話が掛かってきた。祭りの古い書類の件で、会議室とは別のところで話したいという。近くの港に昔の船着き場があり、そこへ来てほしいと言われた。
「今日の三時なら、作業が終わります」
『では、三時半に。急がんでください』
透は電話を切り、時計を見た。午後の修理は予定より早く終わりそうだが、約束の時刻までに千鶴の伝票を見ておかなくてはならない。黒瀬と話すために、いつもの仕事を全部放り出すわけにはいかなかった。
店へ戻ると、千鶴は月曜の帳面へ二台の納品を転記していた。土曜の納品書が一枚だけ抜けていると言われ、透は工具箱の底へ入れたままだった控えを取り出す。
「勝手に未納品にしたら、野添さんから電話来ますよ」
「今、持って帰ってきた。番号も確認してある」
「じゃあ、こっちの控えも揃えときます。港へ行くんですか」
「三時半に黒瀬さんと会う」
千鶴はそれ以上聞かず、昼食後に受け取る配達品の数だけ透へ伝えた。
※
旧船着き場の柵は、十五年前より高くなっていた。岸壁の先は今も作業船が使うため、一般の車は駐車できない。黒瀬は道の反対側に車を停め、船が見える歩道まで歩いてきた。
「足元、気をつけてください。ここ、雨のあと滑ります」
「その注意は私がする側やと思うとりました」
黒瀬は手すりを確かめ、透が立ち止まるのを待った。潮が引いており、海面までの距離がいつもより遠い。
「先日は、祭りを続けると言うた話だけしました。あのあと、あんたのお爺さんのことを思い出しましてね」
「十六年前の配達ですか」
「それもある。しかし、もっと後のことです」
黒瀬は、自分が十五年前の祭りを止める意見に加わらなかったと、もう一度話した。透は聞いた内容を帳面へ書こうとしたが、黒瀬が首を振った。
「ここからは、私が実際に見たことだけ話します。書くなら、聞き終わってからにしてください」
透は鉛筆を鞄へ戻した。
「あの夏、おまえの両親が舟を出したことは、知っとるでしょう」
「ええ」
「最初に戻ってきた舟から、三人が降りました。私も、その一人です」
「その舟に乗るまで、誰とおったか覚えていますか」
「自分の荷物をどこへ置いたかも曖昧や。乗せてもらったときは、長靴の中まで水が入っとったことばかり覚えとる」
黒瀬は言いながら足元の舗装を見た。十五年前の足場がここにそのまま残っているわけではない。透は黒瀬を急かさず、通り過ぎる漁業用の軽トラックを避けて歩道の内側へ寄った。
黒瀬はその日の自分の服装を覚えていた。普段は祭りの準備に履く薄い靴だったのに、足元が濡れたまま乗せてもらったので、船底で何度も滑ったという。詳しい場所や、同乗していたほかの人の事情は話さなかった。
「乗せてくれたんは、あんたの父さんと母さんでした。あのときの三人のうち、一人は私やった」
透は岸壁の向こうを見た。昔の記憶には、人の顔よりも桟橋のロープが残っている。誰がどこに立っていたかを、いまの話に合わせて思い出したふりはしたくなかった。
「父と母に、お礼は」
「まともには言えませんでした。舟を降りたところは人が多うて、私も次に誰に声を掛けるかばかり考えとりました」
黒瀬は最後の言葉を飲み込むようにして、上着の前を留めた。透はそれ以上、二人の行先を尋ねなかった。自分にも覚えていない時間があり、ここで答えを聞いたからといって、その日のすべてを受け取れるわけではない。
「何で、今なんですか」
「先代から受け取った言葉を、私はずっと、ほかの人を働かせる理由にも使ってきたんです。祭りを続けるときも、段取りは自分が決めれば済むと思っておった」
「俺の親が舟を出したのは、黒瀬さんに頼まれたからですか」
「そこは違います。誰が何を頼んだか、私一人の話から決めんでください。ただ、私が助けてもろうたことは確かです」
黒瀬が右手を上げて、岸壁に停まる小型船を指した。
「最初の便の話しか、今日はしません。ほかの二人のことも、おまえが調べるなら本人たちの事情がある。私が名前まで勝手に渡す話やない」
透はその言い方を覚えておこうと思った。知らないから話せない部分と、知っていても自分の口からは話さない部分が、黒瀬の中で分かれている。
「古い記録は、会へ渡しましたか」
「祭りを続ける言うたところまでです。舟のことは、私の記憶として別に残します。誰の記録と照らせるか、まだわかりません」
黒瀬は折りたたんだメモを一枚取り出し、その場で透へ見せた。自分が最初の便に乗ったとする文と、日にちだけが書いてある。署名はあるが、ほかの乗員の名は書かれていない。
「これ、写しをもらってもいいですか」
「この頁ならええ。私の記憶として扱うてください。公の証明書のつもりで使われても困ります」
「日付を訂正したら、写真も撮り直させてください。前のものを残すと、どちらが正しいか分からなくなる」
「そうしてくれ。私のほうも紙の原本は残しとく」
黒瀬はメモを広げ、他人の名前が書き込まれていないことを透にも見せた。透は自分の携帯の保存先を別に用意し、訂正前の画像は残さないと答えた。
透はスマートフォンで表裏を撮った。黒瀬が画像と原本の日付を照らすと、文中に誤字が一つ見つかった。本人が自分のペンで訂正し、その横へ署名を足したあと、透はもう一度撮り直す。初めの画像は黒瀬の前で削除し、原本は本人が鞄へ戻した。
帰りの軽トラックで、透は父と母の名前を書きかけた。細かい書類の裏で、二人の名を書くだけなら何度でもできる。しかし十五年前の夜について、黒瀬から聞いたことは最初の便だけだった。
透は空いた欄に「ほかの二人は未確認」と記し、伝票と混ざらないよう、写真の保存先を新しく作った。
夕方、便利堂へ戻ると、千鶴は配達に出ていた。透は作業靴を脱いで上がり、先ほどの画像をもう一度確認した。野添へ渡った祭りの資料と、黒瀬が個人的に残した舟の証言を同じフォルダへ入れるつもりはない。店の帳簿には、今日請けた網戸の見積もりと、今週払う部品代だけを記入した。




