第50話 裏返しの頁
週が明けると、黒瀬は古い祭礼の帳面を野添へ返しに行った。会合は夕方からだが、野添にはその前に建具の納品があり、公民館の外で受け渡すことにしていた。
「全部ありました?」
「備品の欄は揃っとる。昔の帳面やから、捨てずに置いておいたほうがええ」
「もちろん。写真も撮りました。次から持ち出す人は貸出票に書きます」
野添は帳面を車の助手席へ置いた。黒瀬がまた何か言いかけると、工具箱が後部座席で倒れた。野添は先にそれを起こし、後で連絡すると言って走り去った。
黒瀬は集会所に戻らず、家へ帰った。机の引き出しには、祭礼の個人的なメモがいくつか残っている。支払いの控え、酒屋への注文票、近隣の店へ挨拶した日付。先週、借りた帳面から抜いて自分の封筒へ移した小さな紙片も、そこへ置いてある。
別の控えには、風が強かった日の前日、会場の幕を畳んだ人への礼が書いてあった。借りた帳面から持ち帰った紙片には、開催をどうするか話した相手の人数だけが残っている。黒瀬はその下に鉛筆で小さく書いた自分の文字を読んだ。
『続行の意見を伝えた』
当時の日付の下に、使った机の数や会場の灯りのことは細かく残っている。黒瀬は祭りの当日より、準備中に業者へ何度も頭を下げた日々をよく覚えていた。取り止めになれば食材の返品も出る。雨具を追加する見積もりを頼んだ記憶はあるが、その紙をどこへしまったかは思い出せなかった。引き出しをひっくり返しても、出てくるのは別の年の請求書ばかりだった。
妻に、そんな古いものを今さら何に使うのかと聞かれ、黒瀬は今年の担当へ返すと答えた。妻は皿を片づけながら、「その紙で、今の人が責められんようにしときなさいよ」と言った。妻は器の水気を切り、食器棚の前を空けるよう黒瀬へ言った。黒瀬は封筒を持ち上げ、台所の隅へ避けた。
当時、祭りを止めるよう言った人もいた。雨と風が近づいており、遠くから来る客の帰り道も気にしなければならなかった。黒瀬が覚えているのは、話し合ったときの声の大きさより、自分がその一言を返したあと誰も机の上の紙を動かさなかったことだった。
準備に掛けた金は返せるのかと尋ねる人がいる一方、子どもの行列を楽しみにしている家もあった。黒瀬は祭りの取りまとめ役として、予定を続ける側の意見を示した。最終的な段取りは複数の人間が決めたが、その場で自分が反対しなかった事実は消えない。
黒瀬は鉛筆を取った。古い紙片へ後から説明を書き足すことはせず、白い便箋に日付と当時の役目を記し、覚えている範囲を別の文章にした。人の発言を引用できるほど正確に記憶していない部分には、名前を書かなかった。
十五年前、開催中止を唱えた人が何人いたかも確かではない。「複数」と書きかけて、黒瀬はその二文字さえ消した。代わりに、止めるべきだという意見を聞いたことと、自分が続行を支持したことを別の行へ書く。誰かの名を思い出せないのは不都合だが、紙へ残したところで記憶が鮮明になるわけでもない。
封筒には「当時の私的メモ」「今年、思い出して書いた説明」と二種類を分けて入れた。どちらも野添へ見せるつもりで、ただし後者は十五年前に作った書類と勘違いされないよう、今の日付を入れておいた。
便箋の二枚目を書き終えたころ、家の電話が鳴った。野添からで、次の集まりでは雨天の予定を決める資料が足りず、去年の実施要領を借りたいという。
「去年のなら、集会所の棚に入っとる」
『見ました。雨の日に片づける人の名前しか書いてないです。中止を決めるのが誰か、どこにもない』
「例年は、取りまとめの人が集まって決めた」
『今年もそれだと、当日誰も電話に出なかったら困るんで。名簿を作り直します』
黒瀬は受話器を替えて持ち直した。十五年前の話をここで始めるつもりはなかったが、野添は夏の備品について尋ねているだけなのだと、言い方からわかった。
「連絡先を一人にせず、もう一人置いときなさい。私も当日は家におるとは限らん」
『黒瀬さん、その二人目に入ってくれません?』
「今の会の人間で決めい。わからんことなら答えるから」
『それなら、古い実施要領のどこに予備の連絡先を書いていたか教えてください』
「去年までは欄そのものがなかった。今、作るんなら、電話の届く時間も書いとけ」
『黒瀬さん自身は何時なら電話に出られるんです』
「朝ならおる日が多いが、夏になればどうなるかわからん。私一人を当てにするな」
野添は電話の向こうで何か書き留め、木曜までに新しい案を送ると言った。黒瀬は受話器を置いてから、古い名簿の余白に自分の番号が何度も書かれているのを見つけた。今の番号へ赤で直すようなことはしなかった。
電話を切ると、黒瀬は古い紙片を便箋の上に重ねた。今年の祭りは今年の担当者が決める。だが、十五年前の自分の判断についても、今年の担当者の机へ無言で置いてよいものではなかった。
※
同じ日の午後、透は長机の二台目に新しい補強金具を取り付けた。最初の見積もりから金額は変えていない。黒瀬が持ってきた留め具の件は注文がないままなので、手を付けずに別の箱へ戻してある。
梶が台所で鍋を火に掛けながら、脚のぐらつきを見ていた。
「昔の机は重いな。祭りか」
「黒瀬さんたちの」
「今年も始めるのが早い」
「野添さんが、新しい人に回すからって」
梶は蓋をしてから、もう一度机を揺らした。
「ここまで直すなら、二台まとめて運ばんほうがええぞ。あんたの軽トラ、荷台の後ろが下がっとる」
「航に見せた。板ばねは問題ないって」
「それでも運び方の話や」
梶は予備の毛布を棚から出し、天板の角に当ててみせた。前に軽トラで運んだ板材は、荷台の金具に擦れて縁が欠けたことがある。透はそれを覚えているので、黙って二台ぶんの毛布を借りた。
「祭りの会に届けるなら、積み下ろしの人数も確認しとけ。今の担当が仕事抜けて来るんなら、待たせたらいかん」
「土曜の午前に野添さんと合わせる。ここは俺が積む」
「積むんはええ。下ろすときは二人呼べ」
梶が里芋を小皿へ移す間に、透は机の脚を畳み、運搬用の紐を切って用意した。
透は差し金を置いた。梶に黒瀬の予約のことは話さない。祖父が十六年前に何を届けたかという話も、黒瀬が自分から話した以上、誰にでも聞かせてよいものではない。
梶は鍋から里芋を一つ掬い、味見をしろと小皿を差し出した。まだ芯が硬く、透が首を振ると、蓋を戻して火を弱めた。
「あんた、そういうとこはすぐ言うな」
「食べられないもん出されたら言います」
「口の悪い孫に育ったもんや」
梶が祖父の名を出さなかったので、透もそれ以上の話はしなかった。机の脚は、夜までに二台とも水平になった。




