第49話 受け取った言葉
金曜の夕方、黒瀬は約束どおり長机を二台運んできた。工具の載った台車を押していた野添は、作業台に貼られた見積書を見てすぐ首を振った。
「黒瀬さん、倉庫の三台目は直すより買ったほうが安いですよ。あれは予算外で」
「まだ使えるぞ」
「天板の端が傷んでました。人が寄りかかったら危ないです」
「板を替えたらええ」
「それなら、新品の見積もりも並べて出します」
透は二人の間に挟まる前に、見積書の合計欄へ赤い下線を引いた。野添が持ってきた会の発注書は、費用の上限が決まっている。その額を超えるなら修理を急がず、次の集まりで決めてもらえばいい。
単価欄には、同じ金具でも二台目のほうが交換する数が多いと明記してある。黒瀬が「うちに余りがある」と言ったが、古い金具が同じ規格かどうかは実物を確かめなければ分からない。透は二台分を別の仕事として見積もり直す案も示したが、野添は会の承認済みの範囲で進めてほしいと言った。
「この二台だけ先にお預かりして、三台目は保留にします。今のご予算だと、全部は無理です」
「わかりました。次の会合で聞きます」
野添が発注書へ二台と書き込むと、黒瀬は反論をやめ、台車を畳んだ。若い男は建具会社の現場へ戻る用事があり、車を軽く拭いてから先に帰った。
野添は帰る前に、裏板へ付けた番号札が見積書の番号と一致しているか確かめた。二台の修理を会で承認したのは前夜の電話連絡で、見積もりには金具代と引き取りの運搬費が別々に書いてある。千鶴は不在だったが、透が発注書の控えを渡すと、野添は会社の書類と間違えないよう鞄の別の仕切りへ入れた。
「できれば土曜までに欲しいです。でも、無理なら言ってください」
「部品は揃ってる。夜に一台ずつ直して、来週の会議前には渡します」
「こっちも保管先を空けておきます。黒瀬さん、三台目は倉庫から動かさないでくださいよ」
黒瀬は面白くなさそうに口を曲げたが、仕事用の鍵を持ち帰ろうとはしなかった。
千鶴も今日は予定どおり帰宅していた。黒瀬は、店の中に透しかいないことを確かめてから布鞄を開いた。
「先日のお話、覚えておられますか」
「予約ですか」
「ええ。それと、先代に世話になった話です」
黒瀬は一枚の紙を机へ置いた。そこには宛先を書き込めるよう、白い欄が残してある。前回と同じ空欄だった。
「十六年前、私はあんたのお爺さんから、ある人の最期の言葉を受け取ったんです」
透は帳簿の棚を見た。先代の控え帳を開けば、当時の日付を確かめられるかもしれない。そう思ったが、黒瀬はそこで話を続けた。
「『巌。あとは頼む』。それだけでした」
黒瀬は文字を確かめる必要もなく、その一言を口にした。誰が預けたのかは話さない。透も、いま預かっている相手の名を確かめるのが先だと考え、問わなかった。
「先代は、突然いらしたんですか」
「私が呼んだんです。もう危ないと聞いて。あのときは、私にも手伝えることがあると思っておりましたから」
「受け取ったあと、どうされたんです」
「言葉を持って、いつもの仕事へ戻りました。頼まれたことを全部終えたつもりで」
「誰かに任せることは考えなかったんですか」
「人が集まるたび、私の役目を引き継ぐ言葉みたいに言うとりました。最初は、あの人に言われたとおりにやるつもりでしたがね」
黒瀬は宛先欄の端を指でこすった。折り目が白くなっており、もう何度か開いた紙らしい。
「先代が来たとき、私はまだ五十を越えたばかりでした。祭りの道具の置き場所も、誰が修理できるかも、自分が一番知っとると思うとった。ところが今年、野添が私に貸出票を書けと言うんです。腹が立ったが、あいつが悪いわけやない」
「貸出票なら、俺も書いてもらいますよ」
「わかっとる。頭ではな」
黒瀬は初めて小さく笑った。透はそれに付き合わず、いつもの帳面を膝の上へ置いた。
黒瀬は座ったまま、紙の空欄を指で押さえた。
「あんたのお爺さんは、私が何を頼まれたのか訊かなかった。今思えば、それはありがたかったのかもしれん。答えられるほど、自分で決めておりませんでした」
店の外で自転車が一台停まった。預けていた傘を受け取りに来た客で、透は直した品を番号札と照らし、代金を受け取った。客が帰るまで、黒瀬は机の前で静かに待っていた。
客は骨を一本ずつ開いて確かめ、布に残った小さな穴を見つけた。透が点検時からあった傷だと説明すると、客は知っていると答えて自分の袋から補修テープを出した。貼る位置だけ教えてほしいと言うので、透は傘を広げたまま持ち手を支えた。代金の支払いを終えても、客が納得して持ち帰るまでは預かっている品物だ。
黒瀬は作業の終わりを急かさなかった。客が帰ってから、机の上に置いた自分の紙を裏返し、もう一度宛先の空欄を見た。
「予約の相手は、まだ決まりませんか」
「決めかけた人はおるんです。でも、私からの最後の言葉を聞かせるために、その人に何をさせるのか考えてしまいましてね」
「知らないまま預かるわけにはいきません。亡くなったあとで探し当てることになっても、聞きたくないと言われたらそこまでです」
「先代は、そんなふうに言いましたか」
「俺が実際に失敗したので、これは俺の言い方です」
黒瀬は返事をせず、布鞄から小さな紙包みを取り出した。中には祭りで使う竹の留め具が四つ入っている。二つ割れているから、修理した机へ使えるものか見てほしいという。
「そっちの依頼は受けられます。形が合えば、机を納めるときに付けておきます」
透は割れた留め具の幅を測り、同じ材を用意する手間を説明した。黒瀬は修理代の見込みを聞いてから、今日は注文しないと決めた。野添と相談して自分たちで新しいものを買うらしい。
「勝手に作って持ってったら、また怒られるわな」
「発注は野添さんからもらってください。祭りの備品なら、誰が払うか決めとかないと」
黒瀬は割れていない二つだけを指先へ載せた。形を合わせれば使えるという透の説明を聞いても、それを会へ押しつけるとは言わなかった。透は寸法だけ普通の相談票へ控え、預かり屋の帳面を棚へ戻した。
帰り際、黒瀬は空欄のままの紙を二つに折り、鞄へしまった。
「この紙まで人へ渡すのは、まだ早いようです」
「必要になったら、また来てください」
「ええ。いま私ができる用事も、まだある」
透が店を閉めると、修理を頼まれた長机二台が作業場の半分を占めていた。黒瀬の紙は、預かり帳のどこにも入っていない。




