第46話 二月の予約
二月最初の月曜日、榊便利堂の作業台には、修理を待つ傘が三本並んでいた。
依頼主の名前がわかるよう柄に紙を結び、透は一本目の骨を伸ばした。曲がった金具を元に戻しても、布が裂けているものは長持ちしない。持ち主に電話をする必要があるが、店の固定電話は朝から別の用事で塞がっていた。
「先週の水栓、品番が違います。メーカーさん、交換できるって言ってるんですけど、送り状をこっちで書いてほしいそうです」
千鶴が受話器を肩に挟んだまま伝票を寄せてくる。今日の彼女は便利堂の勤務日だった。昼前に返品を済ませ、午後は藤木の乾物屋へ戻って店頭の棚替えを手伝う予定になっている。
「先方の間違いだろ」
「そこは言いました。伝票を書く人がいないから、お願いできないかって」
「電話、代わって」
「もう切りました。折り返すのは透さんの仕事です」
電話を切ったのは、運送会社の午前の集荷に間に合わせるためだった。千鶴は用紙の余白に集荷の締切を大きく書いて、傘を新たに預けに来た客の番号札を作る。客のほうは骨が一本曲がったままの傘を今日のうちに使いたいと言い、修理料金のほかに代わりの傘を貸せないかと尋ねてきた。便利堂には貸出用の傘などない。千鶴が近所の雑貨店の開店時刻を教えると、客は明日の天気を気にしながら傘を預けた。透は受取票の期限を夕方に書き換え、その下に修理できなかった場合の連絡先をもう一度確認した。
千鶴は新しい用紙に型番を書き、傘の修理代を受け取りに来た客へ顔を向けた。透が電話を掛け直そうとしたところで、店の引き戸が開いた。
濃い灰色の上着を着た男が、敷居の手前で靴の泥を落とした。背筋は伸びているが、右手で提げた布鞄の持ち手が指へ食い込んでいる。透は顔を見て、町内の集まりで何度か挨拶した相手だと思い出した。
「榊さんは、こちらかな」
「はい。何か修理ですか」
「今日は、あんたのお爺さんの仕事について伺いたい」
男は黒瀬巌と名乗った。六十八歳。夏祭りの準備で町を回っている姿を見たことがある。地区の行事の折には必ず顔を出す人だが、便利堂へ客として来たのは初めてだった。
千鶴が湯飲みを出そうとすると、黒瀬は遠慮し、布鞄から封筒を一つ取り出した。
「先代には、十六年前に世話になりましてね。あの仕事を、孫のあんたもしておると聞きました」
透は曲がった傘の骨を台へ置いた。千鶴が筆を止める。黒瀬は彼女を見たあと、封筒を表に返して膝へ載せた。
「人が死ぬ前に、伝えそびれたことを預かる。そういう仕事でしょう」
「どなたから聞かれたんですか」
「お爺さん本人から。昔の話です」
黒瀬は先代が何を届けたか、まだ話さなかった。透は机の上に残っていた客の傘を脇へ避け、黒瀬へ椅子を勧めた。
「予約をお願いできますか。すぐに死ぬ予定があるわけではありませんが」
「予約なら、前にも受けたことはあります。ただ、そのときが来たら、俺が必ず行けるとは約束できません」
「そうですな。先代も同じことを言いました」
黒瀬は封筒を差し出した。中には自分の氏名と電話番号を書いた紙が一枚入っている。宛先欄には何もなかった。
紙の右端には二度消した鉛筆の跡があり、黒瀬が持ち歩くうちに端が毛羽立っていた。用紙は祖父の時代のものに似せて作ったらしいが、便利堂の正式な受付印はない。透は電話番号だけなら普通の相談記録に控えられること、肝心の相手が決まるまでこの紙を預かれないことを先に告げた。黒瀬は「名前も書いとるのに」と言いかけ、宛先欄へ目を落とした。
「届けたい相手は?」
「まだ、決めておりません」
「それだと、受け付けられません」
透が紙を戻すと、黒瀬は少しだけ眉を上げた。
「死ぬときに言えば足りるのでは」
「そのとき俺がどこにいるかもわからないし、名前だけで探し出せるとは限りません。前にも、それで間に合わなかったことがあります」
透が言い切る前に、千鶴が帳簿を閉じた。彼女は黒瀬の書類を覗かず、午後に戻る乾物屋の配達時刻をずらせるか、母へ連絡するため裏口へ回った。
「急いで決めることではないと思っていました」
「急いで決めてほしいわけじゃありません。決まらないうちは予約の書類を預かれない、というだけです」
黒瀬は紙を鞄へ戻した。立ち上がりかけてから、もう一度腰を下ろす。
「それなら、別のことを聞かせてください。預かったあと、相手が聞きたくないと言ったらどうします」
「拒まれたら、届きません」
「それでも、あんたには残るんですか」
透は返品用の送り状に目を落とした。桑島の件で起きたことを、初めて来た客へ詳しく話すつもりはない。
「残ることはあります」
「相手が聞きたくないと言うても、届けに行った人間だけが損をするんですな」
「相手には断る権利があります。俺が損をするかどうかは、引き受ける前に考えることです」
「先代にも、その話をしたかった」
黒瀬は一度口を閉じ、敷居の向こうに置いた自分の靴を見た。透は桑島の件を持ち出さなかった。聞かれたことに答えただけで、黒瀬から頼まれたわけでもない昔話をする理由はなかった。
黒瀬は封筒の角を親指で一度折り、元へ戻した。
「なるほど。では、出直します。相手のほうも、こちらを待ってはおらんでしょうから」
玄関で靴を履いた男は、支払いの有無を尋ねた。透が今日は相談だけなのでいらないと答えると、黒瀬は名刺を置き、帰っていった。
午後、千鶴は乾物屋へ戻る前に、傘の持ち主三人へ修理の見込みを電話で伝えた。透が断った一本は、布を張り替えなければならない。古い骨だけ使いたいという持ち主の返事を、赤字で伝票へ書いておく。
「さっきの方、預かってないですよね」
「宛先が決まってない」
「じゃあ、この名刺は問い合わせのところに入れときます。依頼済みの引き出しに入れたら、私が請求書を作りますから」
透は名刺の裏を確かめた。町内行事の連絡先と、自宅の固定電話が書いてある。二つの番号を帳面へ写し、名刺は千鶴が出した透明の袋に収めた。
千鶴は名刺の袋に日付を書き、ほかの客の注文票が入った箱から少し離れた棚へ置いた。透のところへ相談に来た人が必ず依頼主になるわけではない、と彼女も見てきた。
「水栓、今から掛け直すなら送り状を私が書きます」
「先方が持つって言わないかな」
「そこ、もう一回交渉してください。返品の送料までうちが出したら赤字ですよ」
透は受話器を取り、型番を書いた紙を引き寄せた。相手が電話へ出るまで、千鶴は傘の修理完了日を受取票に転記した。
保留音が切れると、透は送り状を自分の前へ寄せ、返品送料の話から切り出した。




