第45話 聞かせられること
年が明けて最初の月曜、千鶴は乾物屋の帳場で売れ残った贈答箱を数えてから便利堂へ来た。正月のあいだ使わなかった作業場は底冷えがして、透が朝から灯油ストーブをつけても、窓際の工具箱にはまだ冷たさが残っている。
「これ、去年の注文票です。年越しただけで捨てられると思わんといてくださいね」
「正月くらい、仕事のこと忘れさせてよ」
「透さんが引き出しへ突っ込んだのを、私が拾ってるんです」
透は修理用の部品を机へ並べた。年末に引き受けた戸車はまだ見つからず、昼までに取扱店へ二軒電話するつもりだった。千鶴が帳面を開いたとき、作業机の端に別の茶封筒が置いてあるのを見つけた。
「浦上さんの手紙?」
「うん。これから電話して、本人に読むかどうか訊く」
「原本は持っていくんですか」
「本人が受け取るなら渡す。中を読まずに返してほしいなら、そうする」
千鶴は茶封筒を一枚、厚い紙の袋へ入れた。古い紙は折るたびに角が裂けていくので、鞄の中で道具とぶつからないよう板紙も添える。透が礼を言うと、袋の表へ何かを書こうとして、すぐやめた。
「中身がわからんものに、私が勝手に題名付けるのも変ですね」
「浦上家宛て、で十分だよ」
ノブへ電話を掛けると、本人が出た。新年の挨拶を終えると、透は祖父の未発送の手紙が見つかったことだけ伝えた。ノブは読める状態かどうかを最初に訊き、水曜の午後に持ってきてほしいと言った。
※
二日後、浦上家の玄関前の踏み石は、朝の霜が溶けて濡れていた。透が車で約束の時間まで待っていると、家族が先に出てきて案内してくれた。
「今日は母が、途中で話を止めるかもしれません。疲れたらそうするよう、うちからも言ってあります」
「わかりました。手紙はそのままお渡しします」
ノブは前と同じ座敷で待っていた。透が厚い袋から封筒を出すと、手の甲に浮いた血管を指で押さえながら、宛名を読む。
「お爺さんの字やね。うちの名前、えらい丁寧に書いてある」
「切手も消印もありません。祖父が出さずに置いていた手紙です」
「読む前に、あんたが知ったことを教えて」
透は自分が確認できた順に話した。帳面には配達済みの印がないこと。手紙の最初に、音吉の言葉を届けられなかったと書いてあること。そして祖父が、預かったものの中身を見たと記していること。
「宛先は、幸さんだと書かれています」
ノブは膝に置いた手を動かさなかった。やがて封筒を引き寄せ、糊の付いていない口から便箋を取り出す。机に目を近づけて一行ずつ読み、欄外の消し跡へ指を当てた。
「音吉の言葉は、ここに書いてへんね」
「はい。正確な文面は、わかりません」
「うちの人が幸を呼んだんか。それとも、別のことを言うたんか。どっちも残っとらんのやね」
透は頷いた。ノブは便箋をもう一度読み、あの人には言えんな、と声に出した。三十二年前、祖父が帰り際に漏らしたという言葉だった。
「わたしに言えん、いう意味やったんやろか」
「祖父に確かめることはできません。俺には、そうだとは言えないです」
「そうやね」
机には祖父が書いた封筒と、ノブが昔しまった写真の封筒が別々に置かれていた。ノブは間違えて重ねないよう、片方を机の端へ寄せる。透が持ってきた手紙へ目を落としたあと、写真は今日は開かんでええわと言った。前に見せたものを繰り返し出さなくても、話はできる。透は写真に目をやらず、便箋の文字をノブがもう一度読むのを待った。
ノブは茶を少し飲んだ。子どもが亡くなった日のことなら、自分にも覚えていることがあると言い、音吉が郵便局から帰ってきたときの様子を話し始めた。
「知らせは局へ行っとったはずなんよ。あの人、家へ帰ってきても何も言わんで、手だけ洗いよった。わたしが幸の名を出したら、脱いだ上着をもう一回畳み直してな」
ノブはそこで話を切った。食卓に何を並べていたか、何時ごろだったかは覚えていない。透は続きを促さなかった。
「音吉が幸のことを思い出してくれたんなら、わたしも聞きたかった。でも、勝手に決めるわけにはいかんね」
ノブは便箋を畳み、封筒へ戻した。透が欄外の消し跡について話そうとすると、手で制した。
「その先は、あんたにもわからんのでしょう。届かんかったことより、わたしに何も教えんかったほうが、今日は腹が立つ。あんたが謝ることやないで」
透は返事をしなかった。ノブが原本を自宅へ残したいと言ったので、了承し、家族へ撮影を手伝ってもらえるか尋ねた。ノブはそれなら構わないと言い、封筒と便箋を机へ開いた。家族は文字が読み取れるよう一枚ずつ撮影し、透へ画像を送ると、すぐに自分の携帯をノブへ返した。原本はノブが右側の引き出しへしまった。
※
帰り際、ノブは菓子の缶を開けて、煎餅を二枚透へ持たせようとした。透が一枚でいいと言うと、残りの一枚は夕方に来る近所の人へ出すことにする。
「年賀状、ハルから返事が来たんよ。わたしも坂下の新しい菓子屋へ行ってみるわ」
「今日は寒いですから、気をつけて」
「それ、昨日から家の人にも言われとる」
同居の家族が台所から顔を出して、手紙の写真は親戚にも送ったほうがいいかとノブに尋ねた。ノブは今日は送らんといて、と答えた。相手に隠すと決めたわけではない。三十二年かけて初めて読んだものを、その日のうちに自分の手を離して回すのは嫌だった。
「次にみんなが来るまで、ここに置いとく。見せたくなったら、わたしから言うわ」
家族は頷き、写真の入った端末をいつもの棚へ戻した。透の鞄へ入った画像も、同じ許可を得た写しだった。
ノブは封筒の入った引き出しへ鍵を掛けず、透を玄関まで見送った。
便利堂へ戻ると、千鶴が見積書の数字を直していた。画像を保存したことを伝えると、祖父の控え帳とは別の袋を出し、浦上家・本人保管の写し、と書いてくれる。透はその袋を棚に収め、年賀状の束を開いて自分の名前を一度だけ確かめた。
祖父は、あのころ何を言えなくなっていたのか。宛名を見ていると、一つの読み方が浮かぶ。とおる。自分にも言えない語が生じた今なら、名前で呼ばれなかった年月が違って見えた。ただし、音吉の一件がその語を奪った理由までは、どの紙にも書かれていない。
「透さん、午後の仕事、梶さんが時間決めて待ってますよ」
千鶴が声を掛ける。裏口では梶が畑用の支柱を軽トラックへ積んでいた。透が予定表を持って行くと、梶は大根の煮物がまだ鍋に残っているから、仕事前に昼飯を済ませろと言った。
透は支柱の本数を確かめ、荷台のロープを締め直してから、いったん台所へ戻った。




