第43話 呼ばない人
梶十三が便利堂へ来ると、作業小屋の前に脚立が二つ転がっていた。透が夕方の雨に降られ、外へ出したまま片づけるのを忘れたらしい。梶は泥の付いた脚を起こし、ゴム足を外して水を抜いた。
「あんた、こんなんに乗るんか」
「乗りません。今日は直すつもりで出してました」
「直す前に濡らしてどないする」
透は玄関先の雨戸を外していた。戸車の片方が割れ、閉めるたび枠へ引っ掛かる。注文した部品はまだ届かないが、今のうちに外して寸法を測っておけば、年内に渡せるかもしれなかった。
梶が脚立の足を拭き終えると、透はねじ箱を渡した。梶は同じ径のねじが違う袋へ混ざっているのを見つけ、納品時の空き箱を二つ持ってこいと言う。袋の小さな印字は老眼鏡を掛けても読みづらい。大きく数字を書いた紙を貼るほうがよかった。
「この字、爺さんの真似やろ」
「そうですか?」
「七と一の書き方がそっくりや。わしは昔、何べんも書き直さされたで」
祖父は道具の整理にうるさく、見積もりの書き方を教えるときも、数字だけは他人が読める大きさで書けと言ったそうだ。梶が最初に叱られたのは、戻した工具の向きを揃えていなかった日だったという。
「昔のこと、もうちょい訊いてもいいですか」
「脚立のねじ締めてからや。片方ぐらぐらのまま置いとくと、あんたが使うやろ」
透は口答えをやめ、作業台を片づけた。梶が古い脚立の部品を交換するあいだ、自分は雨戸の戸車を外す。木の溝に詰まった細かい砂を刷毛で払うと、歯の欠けた車がひとつ転がり出た。
※
昼食は梶が持ってきた白菜と、透が昨夜炊いた飯の残りだった。二人で食べ終えると、梶は小屋へ戻ろうとしたが、透がスマートフォンを机に置くと手を止めた。
「旧郵便局に、これがあったんです」
「……端っこの、あんたの爺さんやな」
「音吉さんが亡くなる前年だそうです。局へ棚を直しに行ったなら、そのとき撮ったのかと思って」
梶はスマートフォンを横向きにして、照明の反射が消えるところまで椅子を引いた。昔、祖父が現場の写真を嫌ったことは覚えているという。撮影のたびに仕事を中断させられ、戻ってくると外したねじの置き場がわからなくなるからだった。
「そんなこと言う人が、集合写真には写っとるんですね」
「局の棚ができた記念やったら、逃げられんかったんちゃうか。わしの知らんときの話やけど」
梶は端の作業着を指で拡大し、袖口が他の人より黒く写っていると言った。透が祖父の普段の服装を思い出しかけると、梶は先に日付を確かめた。本人が写っていることと、どんな用事で呼ばれたかは、別の話だった。
梶は写真を大きくした。作業着の胸に名札はなく、手にしている道具の形も判別できない。自分が習ったころの祖父とは若さが違う。
「写真を撮った日までわからんよ。局へ棚の修理に行ったいう話は聞いたけど、それが何月かも知らん。わしの弟子入り前やしな」
「祖父があの一件を失敗したことは、いつ知ったんですか」
「働き始めてから帳面を見せてもろうたときや。あの人、自分からはほとんど話さんかった」
透が同じ画面を見せたままにしていると、梶は老眼鏡を外し、卓上に置いた戸車の採寸表を指した。
「こっちは、午後には寸法を出す言うたんやろ」
「夕方までにはメーカーへ送ります」
「なら写真は飯食ってからでええ。向こうも暮れまでに返事欲しいんや」
梶は作業小屋の鍵を取って、いつもの席へ戻した。祖父の写真の話なら長く続けても構わないが、客へ部品の到着日を伝える約束を忘れたら、今の透が困る。透は採寸表に書き込んだ縦横の数字を確かめてから、写真をもう一度開いた。
梶は箸を洗いに流しへ立った。透が三十二年前のことをさらに訊こうとすると、振り返らずに言った。
「そんときのお爺さんが何を思うたかまで、わしに聞かんでくれ。いっぺんも現場におらんのやから」
透は水切りかごの端へ置かれた箸を見た。質問を重ねすぎた。謝ろうとして口を開くが、慣れた一語が喉の手前で止まった。
「悪かった。何度も訊いて」
「謝るほどでもないわ。けど、あんた今、何か言いかけたやろ」
透は紙と鉛筆を取り、短く書いた。ごめん。梶に見せると、老眼鏡を掛け直し、字を読んでから透を見た。
「先月から、これが言えなくなった。書くのは普通にできます」
「病院には行ったんか」
「体の調子が悪いわけじゃないんです。預かった言葉を届け損ねた、その翌日から」
梶はすぐには返事をしなかった。透の掌から紙を受け取り、裏返して何も書いていないことを確かめる。
「爺さんが、道を紙へ書いとったことがあった」
「地図なら、俺ももらったことがあります」
「住所を訊かれたときや。曲がり角の名前が出てこんみたいでな、わしが目印を言い足したら、黙って地図を描き始めた。別の道案内のときも、同じことがあった」
透は祖父が地図を描く様子を覚えていた。字の大きな人ではなかったが、曲がるところには決まって丸を付けた。言葉が出なかったのか、説明するより書くのが早かっただけなのか、子どもの自分には見分けられなかった。
「なあ、あんた。爺さんから名前で呼ばれたこと、あったか」
透は答えに詰まった。家で叱られたときの声や、畑の向こうから呼ぶ声はいくつも思い出せるのに、そこに自分の名はない。
「小さいころは、チビスケでした」
「中学に上がってからは、オマエやったな。背が伸びて、チビスケではおかしゅうなったんやろ」
「母が書いた書類も、祖父が俺にくれた年賀状もあります。名前を知らないはずはないんです」
「知っとることと、口から出ることは違うんやな」
梶は書かれた紙を返した。何かを思い出そうとするように窓の外を見たが、結局、祖父が同じ症状だったとは言わなかった。
※
その晩、透は年賀状の束から小学校へ上がった年の一枚を探し出した。祖父が自分宛てに書いたもので、宛名は榊透くん。丸みのない字は、見積書の数字と同じ癖をしている。
裏にあるのは短い用事と、寒いから風邪をひくなという文だった。当時、家の中でも会っていた相手へ、わざわざ葉書を出した理由まではわからない。
透は自分の名を声に出した。ちゃんと言える。あの一語が言えないときも、名前なら声になる。祖父の筆跡をもう一度見てから葉書を元の袋へ戻した。
台所の冷蔵庫には梶が白菜の残りを押し込んでいた。古い皿に載せたままだと乾いてしまうので、透は小分けにして容器へ移し、明日の昼に使う分だけ取り出した。祖父が台所の入口で自分を呼ぶ声を思い出すと、やはり「オマエ」から先がなかった。




