第38話 訊きに来た人
第038話 訊きに来た人
十二月に入って最初の月曜、便利堂の雨樋掃除は朝のうちに終わった。透が外した集水器を洗っていると、網に詰まっていた銀杏の葉が排水口へ流れかけた。先に受け皿を置くべきだったと気づき、濡れた軍手のまま拾い上げる。
「そこまで洗っても、また葉っぱ入りますよ」
千鶴が店の裏口から声を掛けた。今朝は乾物屋の歳暮用の箱を二つ積んで来ており、便利堂の部品発注帳を開く前に、実家へ届ける品の伝票を分けている。
「詰まらん程度には洗っとく。午後の郵便受け、金具は届いた?」
「昨日届いてます。けど、明日の午後じゃなかったでしたっけ」
「ああ、そうだった。今日行ったら留守か」
「透さんが書いた予定表でしょう」
千鶴はカレンダーの日付に小さく丸を付け、修理に使うねじの袋を伝票と一緒に留めた。宛先には、客が希望した訪問時刻も書いてある。透が一人で現場を回っていたころには、その欄が何度も空いたままになった。
電話が鳴ったのは、二人で雨樋の道具を片づけ終えた昼過ぎだった。受話器の向こうでは、常光寺の白木がいつもより言葉を選んでいる。
『浦上ノブさんという方が、榊さんに一度会いたいそうで。便利堂のほうへ電話をしてもよろしいかと、うちへ相談に来られたんです』
「浦上さん……」
『九十三歳です。お爺さんのことを覚えておられます。修理の相談ではないようなんですが、わしから内容を訊くのも違うでしょう』
透は受話器を持ち替えた。祖父の古い控え帳には、三十二年前の浦上音吉という名の横に、配達済みの印の代わりに持越と書かれている。祖父が亡くなったあと、透はその二文字の意味を梶から聞き、何度も頁を開いては閉じた。
「浦上さんから、俺に会いたいと?」
『お孫さんに、昔のことで訊いてみたいことがあるそうです。無理にお引き受けせんでええんですよ』
「いえ、伺います。明日の午後でしたら、時間を空けられます」
白木は本人と同居の家族へ確かめてから折り返すと言った。透が受話器を置くと、千鶴が送り状を押さえていた定規を外した。
「また、お預かりする人ですか」
「違うと思う。祖父が会った人らしい」
「明日は私、お母さんと店番です。ここの電話、誰が取るんです?」
「留守電を入れておく。午前に郵便受けを直して、午後に伺う」
「修理先にも時間変更、聞いてくださいね」
客へ電話すると、翌朝なら在宅だと返事があった。ただし九時半には出掛けるという。透は必要な工具を揃え、金具の規格だけもう一度確かめた。ノブの家へ持っていく鞄には、祖父の帳面そのものではなく、該当する一行を書き写した紙を入れた。
昼食のあと、千鶴は今月分の出張費を帳面へ写した。便利堂の仕事で同じ坂を二度上がった日があり、透が片方のガソリン代を丸ごと請求書へ載せている。行き先を確かめると、片方は仕事の途中で寄った私用だった。
「これ、二重ですよね。お客さんに渡す前に直しときます」
「助かった。先月の走行記録まで見てくれたのか」
「経費の欄を増やしたの、透さんでしょう。書き忘れる人が一番使わんと」
透は鉛筆で訂正箇所に印を付けた。祖父の持越を調べるための移動も、客の工事代に紛れないよう別の頁へ記録している。今日の白木との電話には仕事の伝票を起こさない。千鶴も何も言わず、その頁には記入せずに紙を閉じた。
午後、坂下の家から屋根の雨漏りの相談が来たが、明日午前は先約があると伝えた。雨が降るまで放っておくわけにもいかず、明後日の下見だけ予約する。浦上家で何を聞くことになっても、今抱えている修理の約束はなくならなかった。
夕方、白木から連絡が来た。面会は翌日の二時。坂の下の空き地に車を停め、玄関で家族に声を掛けてほしいとのことだった。ノブ本人は、長く座っていられなくなったらそこで話を終えるつもりだという。
「寺の方には、何を訊きたいか話されてましたか」
『そこは聞いとりません。あの人、聞かれたくないことには昔から返事せんのです』
透は礼を言って電話を切った。夕方の請求書を一枚だけ仕上げ、机の上に残った祖父の帳面を棚へ戻す。明日持参するのは控えの紙一枚で十分だった。
※
翌朝、郵便受けの錆びた蝶番は、外そうとすると頭からねじが折れた。透は客に作業の延長を頼まず、金具の周りだけ木を削り、用意していた少し長いねじで留め直した。扉がまっすぐ閉まることを三度確かめてから、片づけと支払いを終える。時計は九時十五分だった。
訪問先の住所を確認すると、祖父が以前修理した家々の並ぶ坂のさらに上だった。透が軽トラックを空き地に停めて歩くと、浦上家の玄関脇には、割った薪がきれいに積まれていた。呼び鈴を押して名乗ると、出てきた女性が上着の袖をまくったまま迎えてくれた。
「母の話、途中で区切ってもらうかもしれません。昨日からずっと、何から話すか考えとるんです」
「今日はご本人が話せるところまでで。仕事の予約も入れてません」
奥の座敷には湯呑みが二つ置かれていた。ノブは先に座っており、透の顔を見るなり、持っていた座布団を向かいへ押しやった。
「あんた、あの人に似てきたね。お爺さん、もっと目つきが悪かったけど」
「俺も昔から、よく言われます」
「褒めとらんよ。まあ座り」
ノブは茶を一口飲んだ。透が仕事用の名刺を出すと、受け取らずに机の端へ置くよう指さした。
「三十二年前、うちの人が死んだとき、お爺さんが来てくれたんです。音吉という人で、郵便局の局長をやっとりました」
透は写してきた一行を膝の上に置いた。
「祖父の帳面に、お名前があります」
「ほう。ほんなら、あの人の言葉は届いたんやろか」
ノブは透の手元を見なかった。祖父は七日で届けると言って帰ったのに、その後、一度も届けたかどうかを知らせに来なかったらしい。夫の最期の声はかすかで、ノブ自身には聞き取れなかったという。
「帰り際にな、靴を履きながら一つだけ言いよった。あの人には言えんな、って。誰のことやと聞いても、教えてくれんかった」
透は、配達が終わった印は記録にないと伝えた。ノブは黙って受け取り、机の引き出しの取っ手に手を掛けたが、開かなかった。
「ほんなら、確かめてからまた来て。知っとることまででええ。三十二年も経ったし、一週間くらいは待てるわ」
「調べられる範囲から始めます。わからないことは、わからないままお伝えします」
「それは最後に聞かせて。今日は、家の人に昼の鍋を温めてもらわなあかん」
廊下へ出ると、台所から出汁の匂いがした。透は家族と次の連絡方法を確かめ、玄関の外で靴紐を結び直した。坂の下に停めた車まで歩く間、鞄の中の紙は一度も取り出さなかった。




