第37話 言えない言葉
水曜の朝、便利堂の流しには大きな鍋が置かれていた。蓋を取ると、里芋と大根の煮物が湯気を出した。梶十三が開店前に持ち込んだものらしく、作業台には濡れた新聞紙で包んだ青菜も残っている。透は火を止め、鍋を移してから床に落ちていた土を掃いた。
千鶴が来たのは九時過ぎだった。彼女は事務所へ入るなり、昨日電話を受けた客の伝票を探した。火曜は乾物屋で働いていたので、部品の納期を透がどう答えたかを知らない。
「この戸車、明日の夕方には届くんですよね」
「うん。確認済み。こっちのは、古い方」
「じゃあ、番号のところに線引いときます」
透は新しい帳面を取ろうとして、作業台の上にあった千鶴のメモへ湯飲みを引っ掛けた。麦茶が机の端へ広がり、昨日の電話番号が少し滲んだ。
「ちょっと、透さん!」
千鶴は伝票を持ち上げ、濡れていない部分から番号を読み直した。透は布巾を取りに流しへ向かい、振り返りながら言おうとした。
「……」
言い慣れた三文字の手前で、口が止まった。名前を呼ぶときの舌の動きも、さっきまで客へ答えていた声も、ちゃんと使える。なのに、今言おうとした言葉だけが音にならない。
「透さん、拭くならこっち。電話番号、もう一回書くんで」
千鶴の声で透は布巾を持ち直した。机を拭き終えても、まだ言えなかった。
「悪かった。俺が湯飲みを寄せ忘れた」
「珍しいですね。今日は素直」
千鶴は鉛筆を止め、透の声がいつもより遅れて出たことに気づいたのか、書きかけの数字を見直した。彼女は新しい紙に電話番号を書き写し、濡れたほうを捨てずに机の横へ干した。
「なにか、あったんですか」
「昨夜、届かなかった。期限が来た」
「……そうですか」
千鶴はそれ以上尋ねず、客への折り返しの電話を先に済ませた。透は隣で部品の箱を確認し、昼までに届けられるものと、明日まで待ってもらうものを分けていく。注文を間違えたのは自分のほうなのに、千鶴へ電話を任せきりにする気にはなれなかった。二件目の客には透自身が電話をかけ、品番を取り違えたことを説明して納期を伝えた。
その電話のあと、今度は客のほうが店へ来た。古い戸車の現物を持参しており、似た番号の商品を見せると「こっちは車輪が一ミリ大きい」と教えてくれた。透は仕入れ先の寸法表を開き、先ほど電話で伝えた納期に間違いがないか、客の前でも確認した。
「じゃ、昨日のは返品できるんやね」
「未使用なら、こちらから返せます。俺が品番を見間違えたので、返送料もこっちで持ちます」
「それならええ。明日、届けられる?」
「夕方には入る予定です。届いたのを確かめてから連絡します」
客が帰ると、千鶴が伝票の控えに赤い丸をつけた。返送料の欄が空いているのを透が指摘すると、彼女は紙を寄越した。
「代金、透さんのミスの分だけ別に書いときます。私、いつもの修理代に混ぜたら、あとで絶対わからんくなる」
「そうしてくれ。業者への連絡は俺がする」
「じゃあ、そのあいだに台所の麦茶を捨てときます。今日のぶん、新しいの淹れますから」
千鶴は伝票を綴じ、返送票の番号を赤ペンで囲んだ。伝票を分けておけば、返送代を別の客の修理費に混ぜずに済む。
※
昼前になって、千鶴が裏口から昼食の皿を運んで来た。梶の大根はやけに大きく切ってあり、一つ食べるだけで箸を持ち替える必要がある。
「昨日の分、何かお手伝いできましたか。私、店におらんかったですけど」
「相手が亡くなってた。探しても、見つけられなかった」
「言葉は」
「残った。もう、届けに行けない」
千鶴は箸を置いた。透は食卓の端から古い封筒を取り、裏へ短い字を書いて渡した。
ごめん。
紙の上では普通に書ける。受け取った千鶴は字を読み、もう一度透の顔を見た。
「この言葉?」
「そう。さっき、千鶴に言おうとした」
「……昨日、聞いたらよかったですかね」
「来ても、できることはなかったと思う。昨日は休みやったろ」
「便利堂は休みでしたけど、私は乾物屋で働いてました。別の店におる日は、別の店のことやってますよ」
千鶴は封筒を机へ戻した。透が頷くと、 千鶴は皿を流しへ運び、洗剤のポンプを二度押した。
「必要なら、私が代わりに言いますよ」と台所から声がした。
「何を?」
「書いてあったやつ。透さんの分まで勝手に謝っとく、とは言いませんけど」
透は空になった皿を持って台所へ運んだ。 千鶴は洗い終えた皿を伏せ、「今日はこっちが終わったら実家の配達です」と言った。今日の便利堂の勤務を終えたら、実家で先週から預かっている注文を二件届ける予定だ。
「佃煮、できたんですか」
「できました。母に味見させたら、甘すぎる言われましたけど」
「ハツさんの作り方は、聞いてたんだろ」
「酢を入れることしか聞いてないです。あとの味付け、私の適当ですから」
千鶴はふきんを絞り、作業台へ戻った。透は彼女が濡れた伝票を干しているあいだに、桑島の名を書いた控え帳を机の引き出しへしまった。
※
夕方前、梶が縁台の板を見に来た。透の作業場で仕上げることになっていた板がまだそのままだったので、梶は靴を脱がずに裏口から顔を出した。
「あんた、また飯を残したな」
「食べました。芋が多い」
「明日は葉っぱのほう食え。腐る前にな」
梶は板の角を触り、仕上げに使う紙やすりが足りないと勝手に言い出した。透が道具箱を開けると、違う番手のものが何枚も入っていた。
「こっちの薄いやつ、二枚でええ」
「これでいいなら、先に言ってくださいよ」
「言わんでもわかる思うたわ。今日、調子悪いんか」
「昨日からちょっと」
梶はそれ以上聞かず、板を持って裏庭へ出た。週末に航の工場へ車を預ける約束を忘れるな、と一度だけ声を掛けた。
作業台に戻ると、千鶴が控え伝票へ新しい番号を振っていた。彼女は濡れたメモの文字を確認し終えると、朝と同じ湯飲みを机から離れた棚の上へ置いた。
「これなら、もう倒さんでしょう」
「助かる」
透は伝票を受け取り、明日の現場に必要な部品を数えた。返事はいつもどおりできるのに、朝、千鶴へ言おうとした言葉だけは、声にしようとすると唇が動かなかった。
閉店前、千鶴は家業へ戻る支度をしながら、封筒の裏へ書いた文字を小さなメモへ写した。 透が封筒を片づけようとすると、千鶴が顔を上げた。
「それは捨ててもええですけど、控えは私が持っときます。言う必要があるとき、透さんに一回確認しますから」
「頼む」
千鶴はメモを鞄へ入れ、夕飯の買い物があるからと早足で帰っていった。透は明日の雨戸修理に使うねじを小箱へ移し、店の鍵を掛けた。表の灯りを消す前に、梶が置いていった青菜を冷蔵庫へしまった。




