第35話 海の向こう
月曜の朝、真弓は一時間だけ店を抜けた。明日の図工で使う画用紙を買い忘れ、昨夜になって子どもに催促されたからだ。文具店へ寄るついでに町内の用事を済ませ、戻ったときには惣菜売り場で値引きの時間を尋ねる客が二人待っていた。
「店長、冷蔵ケース、午後から使えます」
「なら夕方の品物、最初からそっちへ入れて。今日は納品の荷を通路に置かんといてな」
画用紙は車の助手席に置いたまま、真弓は翌日の仕入れを確認した。冷蔵ケースを止めていたせいで昨日の発注量を減らしている。夕方には子どもを迎えに行くので、必要な品だけ業者へ追加を頼み、納品の時間を惣菜担当へ伝えた。桑島の取り置き札はもう引き出しにない。明日の火曜に売る煮付けは、いまのところ予約欄が空いたままだ。
朝から値引き品の場所を聞いていた客が、もう一度惣菜売り場へ戻ってきていた。売り切れた鯖の煮付けを来週は取り置きできるかという。真弓は予約の曜日を尋ね、来週火曜の札を新しく作った。桑島の札と同じ引き出しに入れかけて、そこはまだ冷蔵ケースの修理伝票が詰まっていると思い出す。惣菜担当に新しい札入れを用意してもらうことにした。
「桑島さん、もう来はらへんの?」と客が小声で聞いた。
「桑島さんのことね。すみません、お客さんのご事情はほかの方には言えんのよ」
「悪いこと聞いたね」
「来週の分は火曜でいいですか。受け取り、五時を過ぎても大丈夫ですよ」
客は五時半と答えた。真弓は次の札には時刻まで書き、空いている棚へ挟んだ。隣のレジでは、手の空いた若い従業員が配送箱を片づけていた。冷蔵ケースが午後から使えるようになれば、今日の弁当の値付けも前と同じに戻せる。真弓は新しい札入れの位置を従業員と決めてから、休憩の交代を頼んだ。
昼休み、透が弁当を買いに来た。
「この前の案内、役に立った?」
「うん。会館の人に会えた。昔の手紙を読んだ人とも話した」
「それで、マリアさんは?」
透は買い物かごを持ち直した。レジの後ろには別の客が並び始めており、詳しい事情をここで話すつもりはなかった。
「もう会えない人だった」
「……そう」
真弓は、それ以上の説明を求めなかった。桑島の古い予約札は業務の控えを残して処分した、とだけ告げた。透にはそれが今朝のことなのか、数日前なのかもわからない。
「桑島さん、買い物に来たらいつも『また来週』言うて帰ってたんよ。予約の札も、火曜になるまで置いとった」
「うん」
「来週の分は、予約入れんままにしといた。あとで取りに来んかったからって、代金をつけられんしな」
真弓がほかの客に呼ばれたので、透は弁当の代金を払った。駐車場の隅へ軽トラックを停めて食べた。今日は雨樋の補修が二件ある。昼のあいだに資材の本数を確認しておかないと、夕方もう一度店へ戻ることになる。
※
千鶴はその日、便利堂の帳面を一冊作り直した。実家の乾物屋で使う帳簿を真似たもので、発注してから届くまで時間のかかる部品を、客の名前ごとに分けてある。透が前月から取り置いていた網戸の戸車が箱の底へ沈んでいたのを見つけ、同じ部品を二回仕入れかけていたことがわかった。
「それ、まだ使えますよ。次の修理のときまで箱ごと置いときますか」
「うん。ありがとう。昨日も品番を探したとこだった」
「私がいない日に注文した分は、この欄に書いてください。今日みたいに私が見つけても、気づけん日もありますから」
千鶴は事務所の棚へ新しい帳面を立てた。月曜はもともと便利堂の勤務日で、夕方には実家の店へ戻る。土曜の夜に作った佃煮の味を母に確かめてもらう約束をしているのだ。
透が桑島の件で話し始めようとすると、千鶴は手を止めた。
「昨日、その人と話せたんですか」
「話せた。亡くなってた。もう何年も前に」
「相手の娘さんは?」
「今どこにいるか、わからない。俺が知っていいかどうかも、まだ」
千鶴は棚の奥へ帳面を押し込み、透のほうへ向き直った。
「透さん、今ここで相手の娘さんに届けることを考えてるなら、私、手伝える気がせんです。故人の家にまで行って、ほかの人へ聞かせるのは、また違う話でしょう」
「娘さんへ届けても、本人には届かない」
「……じゃあ、どうするんですか」
「わからない。場所の手がかりだけ、もう一度聞いてみる」
千鶴は返事をしなかった。少しして、店の電話が鳴った。彼女は受話器を取り、納期を問われた戸車の番号を新しい帳面で確かめてから答えた。
※
透はカルロスへ、手紙に墓地の地名がなかったかを確認するため、短い連絡を入れた。折り返しが来たのは夕方だった。彼は工場の事務室から電話しているらしく、後ろで機械の停止を知らせる音が鳴った。
『手紙に書いてあったかどうか、はっきり覚えていません。日野さんのコピーを確認すれば、わかることはあるかもしれませんけど』
「確認してもらえますか」
『今すぐは無理です。僕も明日の朝早いんで。それに、娘さんの手紙ですから、内容を別の人へ渡すかは節子さんと話して決めます』
「そうですよね。すみません」
電話を切ってから、透は古い便箋の署名を思い出した。あれが娘の名だとわかっても、宛先の墓に一歩も近づけていない。必要な場所を知るために、知らない家族の私信をこれ以上開いてもらうのが本当に筋なのか、答えは出なかった。
常光寺へ寄ったのは、もう夕方だった。白木は本堂の畳を替える日の打ち合わせをしており、透を庫裏で待たせた。ようやく手が空くと、白木は流しから湯飲みを二つ持ってきた。
「亡くなった人が宛先なんです」と透が言った。
「そうですか」
「あのとき、マルの墓では声が出ました。今回は、どこに眠っているのかもわからない」
白木は湯飲みを透の前へ置き、自分の分には茶を注がなかった。ポットが空になっていたのだ。
「榊さん。うちの寺でも、どこへ納められたかわからん人のお名前はあります。供養の申し込みが来るたび、探しに行けるわけやないんですよ」
「はい」
「だからここへ来るな、いう話でもありませんけど。私はお墓の場所、知りません」
白木が台所へ湯を沸かしに行ったので、透は本堂から聞こえる畳職人の声を聞きながら待った。帰り際、庫裏の古い戸車が音を立てるのに気づいたが、今日は修理の話をしなかった。
便利堂へ戻ると、千鶴が新しい帳面を机の上へ残していた。最初の頁には、明日取りに来る客の部品番号が二つ、彼女の丸い字で記されていた。




