第34話 二度目の朗読
日曜の昼前、寺村カルロスは作業着を洗濯機へ入れた。先週の夜勤が一日延びたせいで、洗濯物の山が椅子の背まで届いている。午後から電話で話す約束をしている相手は、亡くなった桑島与一の知り合いだという。日野節子から連絡が来たときは仕事中で、休憩に入るまで返信できなかった。
桑島の名を聞くのは久しぶりだった。初めて会ったのは県外の移住者交流会で、年寄りの日本語を聞き取って通訳している人を、職場の先輩が手伝いに呼んだからだ。カルロスはポルトガル語を話せるが、昔の手紙の字を読むのは得意ではない。あの日は何度も行を戻り、知らない表現は節子の持っていた辞書を借りた。
会館の長机で、桑島は便箋を汚さないよう新聞紙を敷き、読み終わるまでほとんど口を挟まなかった。カルロスが日本語へ置き換えている途中、桑島は一度だけ「そこの行、もう一回」と言った。最後まで読むと、全部を最初からもう一度頼まれた。
二回目に読み終わって、カルロスが水を飲んだときだった。
「これ、返事を書いても届きますか」と桑島が尋ねた。
「差出人の住所が変わってなければ、ですけど」
「そうか」
桑島は長く考えたあと、手紙を封筒へ戻した。返事を代筆してほしいとは頼まれなかった。カルロスも、それ以上勧めなかった。
会館で節子が古い会報を片づけているあいだ、桑島が帰りのバスの時刻を何度も確かめていたことまで、カルロスは覚えている。だが何を後悔していたのか、誰とどんな約束をしたのか、話したことはなかった。
脱水が終わると、カルロスは濡れた作業着を一枚ずつ裏返し、ポケットに紙片が残っていないか確かめた。工場では、機械の点検表を作業着へ突っ込んだまま洗濯し、朝から書き直しになった人がいる。自分も一度やったので、洗う前と干す前に見ることにしていた。今日のポケットから出てきたのは、昨日の買い物のレシートだけだった。
電話の時刻を書いた紙は食卓の端に置いてある。カルロスは桑島のために取っておいた古い手帳も隣へ出したが、手紙の内容を写してはいなかった。依頼を受けたころの勤務先と、読みにかかった時間が書いてあるだけだ。自分が覚えている会話の一部を、昔の便箋に書いてあったことのように扱わないため、透へは手帳を見せず口で話そうと決めた。
洗濯物を干し終えるころ、職場の連絡網で翌週のシフト変更が届いた。返事をしないままにしていると、月曜の引き継ぎで同僚が困る。カルロスは勤務を確認してから短く承諾を送り、電話が鳴ってもすぐ取れるよう、食卓の上の物を片づけた。
※
午後二時、カルロスは連絡を受けた番号へ電話した。榊と名乗る男は、桑島の最期に居合わせた便利屋だと説明した。いま言葉を預かっていて、宛先を知りたいのだという。
『ご本人は、亡くなったんですね』
「水曜に。搬送先で確認されました」
『あの人、八月には来てたんですか』
「去年は休んだと聞きました。今年のことは、日野さんにもまだ確かめてません」
カルロスは机の上の紙をひっくり返した。何年か前の交流会で配られた会報が、家の書類に混ざって残っていた。桑島の顔が小さく載った写真を見つけたが、そこに透の探す人の名前は書かれていない。
「手紙の差出人に、Marliという名前がありました」
『マルリさんです。マリアさんの娘さん』
「マリアさんは、今どちらにいるかわかりますか」
カルロスは電話を持ち替えた。聞かれたことに短く答えるのもためらわれたが、桑島が亡くなったと知ってなお、何も言わずに電話を切るのは違う気がした。
『マリアさんは、亡くなっています。あの手紙が来る少し前ですから、今から八年か九年ほど前になると思います』
透は相づちを打たなかった。カルロスは電話が切れていないことを画面で確かめた。
「桑島さんは、そのことを知っていたんですか」
『僕が読みました。二度とも日本語で。読み終わったあと、返事が届くかどうかも聞かれましたよ』
「何に怒っていたのか、聞かれました?」
『聞いてません。手紙には色々書いてありましたけど、人から来た手紙を僕が全部話してええもんか、わからないので』
透は礼を言い、墓のある場所について何か記されていなかったかだけ尋ねた。カルロスの記憶に残っている範囲にはない。娘の今の住所も、封筒にあった住所がまだ使われているのかわからなかった。
『僕、亡くなったことだけなら話せます。マルリさんが今どうしてるかは、知りません。もし連絡を取りたいなら、まず向こうの人が受け入れてくれるか確かめないと』
「わかりました。そこは勝手にしません」
『それと、桑島さんに僕が読んだことを、ほかの人がどんなふうに話してるかも知りません。僕の言ったところだけ、確かめた話として扱ってください』
透はもう一度礼を言った。電話の向こうで短い通知音が鳴り、カルロスは明日の勤務について連絡が来たと言った。通話が終わると、透は握っていた鉛筆を机へ置いた。
※
便利堂では、午前に玄関の戸当たりを交換してきた透が、昨日の仕事の伝票を片づけていた。カルロスとの通話を終えると、別の紙を取り、桑島の名の横へ小さく印をつける。
マリアが亡くなったのは八、九年前で、桑島はその知らせをカルロスから二度も読み聞かせてもらっていた。透は電話番号の脇に「墓所不明」と書き、鉛筆を置いた。
透は机の下から、沖田宗一郎の件で使った古い地図を引っ張り出した。あのときは犬の遺骨と名札を見つけ、庭の石の下へ納めたところで言葉が出た。なぜ届いたのか、祖父の控え帳にも答えはない。もう一度同じことを試したいという考えが浮かんだが、犬のときに何が起きたのか、透自身にも説明できない。カルロスの話では、墓地の所在すらわからなかった。
夕方に節子へ連絡すると、昨日譲ることにした名簿の書き方で事務員と揉めている最中だった。節子は電話の向こうで「その欄は空けといて」と誰かに告げ、それから透に向き直った。
「寺村さんと話せましたか」
「はい。ありがとうございました」
「探してた人は見つかった?」
「亡くなったことを知りました。桑島さんも、生前に聞いていたそうです」
節子はしばらく何も言わなかった。やがて事務員に名前を呼ばれ、これから電話を切ると謝った。
「会報の桑島さんの住所、消すのは来月にするわ。ご親族に確認してからね」
通話が終わると、透は地図を畳んで棚へ戻した。夕食用に買ってあった豆腐は賞味期限が今日だった。冷蔵庫から取り出しても、すぐには包丁を持つ気になれず、結局そのまま冷ややっこにした。




