第32話 名札
金曜の朝、日野節子は会館の物置から折り畳み机を二台出した。前の会合で返された名札が紙箱に詰まっている。来月には床を張り替えるので、備品を一度全部別の部屋へ移さなければならない。手伝いに来た若い事務員は、重い机を持つ前に名札の整理を終えたいと言った。
「名簿の順に並べましょうか」
「古い人のは、まだ抜かんといて。欠席しただけかもしれんから」
「出欠の控え、五年分ありますよ」
「それ、あんた一人でやるつもり?」
節子が笑うと、事務員は机の脚を広げたまま手を止めた。八十二になっても自分の仕事を人へ渡すのは面倒だった。誰に連絡すれば返事が来るか、年賀状だけ届く家はどこか。名簿の余白には節子しか読めない走り書きが増えている。けれど去年、二つの宛名を入れ違えて送った会報を、わざわざ車で取りに来た人がいた。
今日から事務員と名簿を分担することにした。住所欄の書き方を説明し、住所を知らせたくない人の欄には、会館の番号だけを記す。節子が気をつけていたのは、知らない人にもわかるように帳面を直すことだった。
段ボールから桑島与一の名札が出てきた。いつも受付の順番を譲る人で、会場の片づけを始めると誰より早く机の下へ潜り込んだ。八月に来たときは折り畳み椅子のねじが緩んでいたのを見つけ、「これ、今のうち直さんと、座った人が転ぶで」と言っていた。
昨日、臥雲町の便利屋から電話があり、亡くなったと聞いた。会報へ訃報を載せてよいかも、まだ親族へ確かめられていない。節子は名札を箱へ戻してから、来客用の茶碗を揃えた。
古い封筒を探すと、棚のいちばん上から薄い紙箱が降りてきた。桑島が手紙の翻訳を頼んだときに作った写しは、この箱に入っている。原本を返した日付と「本人の希望で三枚複写」と記した付箋も残っていた。事務員が客に見せるなら全部コピーを取り直そうかと言ったので、節子はやめてもらった。
「手伝うてくれるんはありがたいけど、今日はそこまでせんでええ」
「名前だけ見せたら、探せるんですか」
「探せるかどうかは、来た人が考えはる。わたしは読んでええ範囲を決めとかな」
手紙の一枚目を抜きかけ、節子は署名のある最後の紙を上にした。封筒を切って作った細長い紙を重ねると、差出人の名だけが出る。昔は受け付けの台を直すより先に何でも引き受けていたが、いまは書類の整理を手伝う人がいる。その事務員にも、桑島から頼まれたこと以上を引き受けさせたくなかった。
※
透は午後、会館へ着いた。午前の蛇口交換を別の日に回し、先に客へ交換部品だけ届けてある。自分の用事で空けた時間まで便利堂の経費へ入れるわけにはいかないので、往復の燃料代は別に書き留めた。
「遠いところ、わざわざ」
「突然お願いして、すみません。桑島さんが毎年こちらへ来られていたと聞いて」
「毎年、というより、来られん年もありましたよ。去年は身体がしんどい言うて電話が来ました」
節子は公開の会報を一冊渡した。去年の集合写真には桑島が写っていない。もう一冊には、撤収作業をする大勢の足元のあいだに、椅子を重ねている桑島の後ろ姿があった。
「向こうに残した人を探しとられたんですか」
「探してた、いうより、毎年同じ席におられました。来ん人の話を、こっちが無理にさせる会じゃなかったから」
節子は会報を閉じ、封筒を一つ出した。桑島が以前、外国語の手紙を読める人がいないかと相談し、本人の頼みで取ったコピーだという。原本はその場で桑島へ返している。三枚あった写しには長い文章が並ぶが、節子は読み上げようともしなかった。
「この人に用があると聞いたから、名前だけ見せます。中身を誰にでも渡してええと、桑島さんから頼まれたわけやないので」
便箋のいちばん下だけが見えるよう、節子は紙の上に別の封筒を重ねた。署名は Marli。透が尋ねている名前とは違う。
「この方が書かれたんですか」
「そうです。桑島さんがここへ持って来られたとき、読んでくれた若い人がおったんですよ。自分がそばで聞いとったわけやないから、何を話したかまでは知りません」
「その方へ、連絡を取れるでしょうか」
「わたしから聞いてみます。本人がええと言わはったら、電話番号を伝えますよ」
節子は帳面をめくった。電話番号の横にある古い住所は二重線で消されていた。透は椅子に腰を下ろしたまま、節子が番号を探し終わるまで待つ。
「わたし、今日中に答えをもらえるとは限りませんよ」と節子が言った。
「はい。連絡だけお願いできますか」
「それなら、引き受けます」
事務員がお茶を運んできたので、二人は箱の陰へ置いていた机を立て直した。脚を固定する金具が曲がっており、節子は透へ工具を貸してほしいと言った。透が持っているのは普段の小さな道具入れだけだったが、ねじを締めるには足りた。
「ちゃんと仕事になってしもたね」
「これはサービスで」
「便利屋さんにそれ言われると、来年また頼むで」
節子は笑ってから、会報の宛名帳を事務員へ渡した。桑島の名札だけを手元に残し、次の会でどう扱うかはまだ決めなかった。
※
帰りの軽トラックで透は、節子に見せてもらった署名を帳面へ書き写した。丸い文字だったのか、早書きだったのか、今では自分の書いた字のほうしか見えない。助手席には会報と、明日の仕事に使う新しい水栓金具が置いてある。
夕方に航の工場へ寄ると、整備中の車がリフトに上がっていた。航は作業着の袖をたくし上げて出てきたが、透が車検前の点検日を決めたいと言うと、事務所の暦を自分で見ろと指さした。
「来週の朝なら空いとる。預けるだけ預けてけ」
「じゃあ、そこに名前書いとく」
「いま書け。どうせ帰ったら忘れる」
透が鉛筆を握ると、携帯が鳴った。日野からで、手紙を読んだ人に連絡がついたが、仕事中なので今すぐ詳しい話はできないらしい。
『日曜の午後なら話せるそうや。番号を榊さんへ渡してええって、確認取れました』
透は礼を言い、連絡先を手帳に控えた。相手が指定した日曜まで、仕事の都合を確認しておくことにした。通話を終えると、航がカレンダーの空白を指で叩いた。
「お前、肝心なときにいつも手ぇ止まるな。点検、来週の何曜にする」
透は金曜の欄に自分の名前を書いた。航はその横へ、大きな字で「午前中」と付け足した。




