第30話 取り置き
十一月の水曜、鯖の煮付けが一つ、昨日の札をつけたまま冷蔵ケースに残っていた。
ヤマイチの惣菜売り場で、保坂真弓は札の角を指で持ち上げた。太い黒字で「桑島」とある。取り置きを頼まれたときは、売り場の人が名前と受け取りの時刻を書く。桑島与一は毎週火曜の夕方に来るので、時刻を書かなくても誰も困らなかった。
「これ、今日の値引きに回します?」
「回して。昨日の札は外しておいて」
「桑島さん、電話も出られなかったんですよね」
「今朝もう一回かける。手ぇ空いたら、卵の納品を先に見てくれる?」
店の裏で、冷蔵庫の扉がきちんと閉まらないと連絡が来ていた。真弓は修理業者の番号を探しながら、桑島の家へ電話した。呼出音が続く。そのまま切って、隣家の女性にかけ直した。
『昨日から雨戸が閉まっとるんよ。裏へ回っても呼んでみたけど』
「窓は開けんでね。駐在さんに私から連絡する」
『大げさにせんでも、どっかへ出かけとるかもしれんで』
「それなら、それでええから」
桑島は七十八歳で、買い物袋の中へ必ずレシートを畳んで入れた。真弓が二週間前にレジを代わったときは、小銭を数えながら「今日は一円も余らんようにする」と言って本当に一円も余らなかった。月曜には卵を買い、火曜に煮付けを取りに来る。昨日の夕方に来なかったことだけなら、たまたまかもしれない。それでも、月曜に買った豆腐を冷蔵庫へしまえているかどうかまで、真弓には確かめようがなかった。
駐在所へ電話を終えると、修理業者から折り返しがあった。冷蔵ケースを止めるあいだ、売り場の品物をどこへ移すか決めなければならない。真弓は惣菜担当に仕分けを頼み、取り置き札を事務所の引き出しへ入れた。
店長代理が奥から来たので、真弓は台車に移した惣菜の数を一緒に数えた。予定より早く値引きへ回す品には、いつもより短い消費期限の札を貼る。桑島を案じていた従業員が「私も行きましょうか」と声をかけたが、真弓は首を振った。
「店は二人も抜けられん。もし業者さんが先に来たら、修理する前にここの温度を見てもらって」
「店長の休憩は?」
「戻ってから取る。戻れんかったら、店へ電話するわ」
仕事の引き継ぎを終え、真弓は隣人へ、駐在が来るまで家へ入らないようもう一度伝えた。急いで出ようとしてエプロンの紐をほどきかけたところへ、レジの釣り銭が足りないと呼ばれた。事務所から硬貨の棒を一つ持ち出し、数を確かめて渡す。自分の自転車にまたがるまでに十分かかった。
※
便利堂では、千鶴が庭仕事の請求書を封筒へ入れずに置いていた。
「竹岡さんの分、金額これでいいんですよね」
「うん」
「ご本人に送ってって言われたのに、いつまでここに置くんですか」
「今日出す。切手ある?」
「あるけど、宛名まで透さんが確認してください。こたつの修理代、勝手に足してないですよね」
透が請求書を取り上げたところで固定電話が鳴った。千鶴が出ると、すぐ作業台のほうを振り返る。
「宇野さんです。港の桑島さんのお宅で、鍵を開けることになるかもしれないって。宇野さん、今から行くそうです」
透は作業着の袖を戻し、開錠用の道具箱を軽トラックへ積んだ。千鶴が封筒を持ったままついてくる。
「私、午後は乾物屋の配達です。今日は行けませんよ」
「こっちは宇野さんの仕事だ。頼まれたことだけやってくる」
「そうしてください。あと、これ」
差し出された封筒には、まだ切手が貼られていなかった。透は受け取り、運転席の日除けにはさんだ。
桑島家は港の東側の細い道を入ったところにある。玄関前には駐在所の車が停まり、宇野が門から家の中へ声をかけていた。隣人の女性は自転車を道端へ寄せ、落ち着かない様子で雨戸を見ている。
「ご家族への連絡は」
「確認中です。救急も向かっています。まず中にいる人の様子を見ないと」
宇野は開ける必要があると判断し、透に作業を頼んだ。玄関が開くと宇野が先に入り、廊下から桑島の名を呼ぶ。透は、救急隊が来たらすぐ通れるよう、指示された新聞の束を脇へ寄せた。
居間のテレビはついたままだった。食卓の湯飲みに茶が半分残り、床には転がった新聞がある。こたつの向こうに桑島の肩が見えた。
「桑島さん、宇野です。わかりますか」
老人は返事をしなかった。宇野が容体を確かめ、電話口の指示に従って救急隊を待つ。透は玄関との間を行き来していたが、桑島の口が動いたので、宇野に知らせて傍らへ膝をついた。
テレビの向こうで誰かが笑っていた。宇野が廊下へ声を掛けたとき、桑島の唇が動き、その声が透の内側に届いた。
「マリアに、うちは怒っとらんと言うといてくれ」
言い終わると、桑島の目が閉じた。透が名前を呼びかけたところへ宇野が戻り、間もなく救急隊が到着した。処置と搬送の邪魔にならないよう指示され、透は靴を履いて門の外へ出る。このとき透には、搬送先でどうなったか、まだわからなかった。
※
真弓は救急車が出ていくところに間に合った。制服の上に作業用エプロンを戻しかけたままで、胸元には惣菜の値札が一枚くっついている。
「桑島さん、どうやった?」
「病院に行った。まだわからない」
「店でずっと電話しとったんよ。昨日の煮付け、まだ来んから」
透が宛先の名を尋ねると、真弓は首を振った。桑島の昔の交友関係まで、買い物を受ける側が知っているわけではない。真弓は少し考え、港で働いていたころの話なら、夏の県外の集まりで聞いたことがあるかもしれないと言った。
「調べてみる。けど、今日は店を空けとるから、夕方以降にして」
「わかった。ありがとう」
「礼はまだ早いって。何も見つけとらん」
真弓は自転車のかごから携帯を取り出した。店からの着信は三件。隣人には、家のことで困ったら今度は直接駐在所へ相談してほしいと頼み、坂を上がっていった。
店に戻ると、真弓は休憩に入る前に冷蔵ケースの温度を確かめた。惣菜担当が移しておいた品は傷まずに済み、修理業者の見積もりも届いていた。「桑島さんは」と聞かれて、病院へ運ばれたところまでを伝える。従業員が売り場に出ていくと、真弓は問い合わせの時刻を書いた伝言メモを予約札の隣へ入れた。手を洗い直し、休憩を短く取って惣菜売り場へ戻った。
午後、宇野から桑島が搬送先で亡くなったと連絡があった。便利堂へ帰ると、千鶴から昆布の配達が一件増えたと連絡が来た。透は昼を食べそびれたまま竹岡家の封筒を机へ戻し、帳面に桑島の名と今日の日付を書き込んだ。ほかの欄と違い、相手の住所を書けるだけの余白が、そこには残っていた。




