第3話 七十席
午後一時を待たずに、常光寺の椅子はほとんど埋まった。
入口に立っていた透は、杖をついた夫婦を通路側の席へ案内し、空いた椅子を二脚だけ壁際から運んだ。昨日引いた紐の位置を越えると車椅子が通れなくなる。あとから来た人には、後方の折り畳み椅子へ移ってもらった。
「透さん、私、三十人くらいだと思ってました」
花を運んできた千鶴が、いつのまにか増えた靴を見て言った。
「宗さん、知らない人にも仕事頼まれる人だったからな」
「だからって、こんなに?」
「その辺の話、今日は俺より詳しい人がいそうだ」
千鶴はそれ以上人数を数えず、受付の机へ戻った。町内会の女性が、名前の書かれていない香典袋を持って困っていたからだ。帳簿には受け取った人の記録があるが、袋の表は空白だった。
「さっきの畑の人かもしれんけど、字を忘れる人でもないんや」
「だったら、勝手に書かないで置いときましょう。見つかった時刻だけ、別の紙に書いて」
千鶴が空の封筒に受付時刻を書き、袋を入れて机の奥へ移した。乾物屋で売上金を扱っていると、あとから誰のものかわからなくなった金ほど面倒なものはない。透は名札のある袋だけ親族へ渡し、確認のつかない一袋には触れなかった。
その後、香典を預けた老人が引き返してきた。袋に自分の名前を書き忘れたと気づいたらしい。差し出された筆ペンで文字を記してもらい、受付の女性が帳簿と照合する。老人は透へ向かって、宗さんには年賀状の字が下手だと毎年笑われた、と言った。
「本人も大概やったのに、他人の字には厳しい男でな」
「今日は、誰も採点しませんよ」
千鶴が袋を受け取ると、老人は頭を下げて本堂へ入った。開始時刻までに最後の参列者が座り、透も列の後ろへ回った。
白木の読経が始まる。開け放った本堂へ夏の風が入り、香炉の煙が扇風機に押されて脇へ流れた。遺影の宗一郎は、誰が選んだのか、少し不機嫌そうに写っている。透が焼香台で手を合わせても、預かった言葉は喉へ上がってこなかった。
宗一郎を知る人がこれだけ集まっている。その誰に向かっても、マル宛ての一言が出てくる気配はなかった。
焼香を終えて入口へ戻ると、まだ立っている人が二人いた。透は取り置いた椅子を勧めたが、一人は足を曲げると痛むと言って断った。受付の女性が座布団を出しかけたところで、白木が廊下の長椅子を使ってよいと知らせてくれた。透は男たちをそちらへ案内した。
式が済んだあと、千鶴は台所から呼ばれた。配膳を頼んでいた人が急に一人来られなくなり、代わりの手が要るという。しかも乾物屋の祖父が手伝いに来ていて、孫を見つけるなり折詰を渡してきた。
「じいちゃん、私、今日は便利堂の仕事なんだけど」
「ほな、そっちへ給料もらえ」
「誰が払うの。透さん?」
「うちが受けたのは椅子だけだぞ」
透が飲み物の箱を運び始めると、千鶴も折詰を抱えてついてきた。台所と広間を何往復かするうちに、参列者の話は宗一郎の仕事へ移っていった。
藤木の祖父が、台風で乾物屋の屋根を傷めた年のことを持ち出した。宗一郎は翌朝、頼んでもいないのに軽トラックへ梯子を積んで来たという。
「銭はいらん言うから、菓子折り持ってったんや。そしたら菓子より煮干しを寄越せって」
「宗さん、そんなに魚が好きやったんか」
「犬や。マルが横で口開けて待っとった」
向かいに座っていた中尾という年配の漁師が、折詰の箸を置いた。
「マルな。うまいもん持っとらんと、知らん顔しよったわ」
「宗さんにだけは、どこへでもついとったのにねえ」
犬の名前が出たので、透は空き瓶を下げるふりをして近くに残った。中尾は、宗一郎の軽トラックの荷台に犬用の木箱が据えられていたことを覚えていた。朝は犬を載せて出かけ、夕方に箱が空なら、どこかで犬を遊ばせているのだろうと近所で話したそうだ。
「けど、帰ってこんようになったときは、たいそう探しよった」
「いつごろのことです?」
透が訊くと、中尾は隣の男へ顔を向けた。二人で年を数えようとしたが、仕事の時期について記憶が食い違う。
「十五年ほど前か。夏の祭りの前だった気がする」
「祭りのあとやなかったか」
「そこは自信ない。朝にはおったのに、夕方になっても帰らん言うてな」
病気だったのかと訊いても、中尾は首を振った。宗一郎が探しに行った先について話しかけたところで、別の席から呼ばれ、折詰を持って立ち上がってしまった。
中尾と入れ違いに、夫の杖を持った女性が透のそばへ来た。宗一郎が病室へ移ってから何度か電話を掛けたが、とうとう話せなかったという。透が診療所の名前を答えると、女性は自分の住所が変わったことを知らせ忘れていたと首を振った。
「今さら知らせても、宗さんにゃ間に合わんけどな」
「町内会の連絡先なら、世話役の人に伝えておけます」
「そっちは頼むわ。うちも歳とったら、誰に電話してええかわからんようになってきた」
透は手帳の空いた頁を開き、本人から渡された電話番号だけ書いた。犬のことを訊くつもりで立っていたが、女性が先に夫の杖を取りに戻ったので、声は掛けなかった。
透はそのあとも瓶を運んだが、犬の話へ戻る機会はなかった。帰る人が増えると、玄関には片方だけ残されたサンダルや、名前のない傘が集まってきた。千鶴は傘を畳み直して壁に寄せ、間違って持ち帰られないよう受付へ声を掛けた。
夕方、ようやく皿を洗い終えるころ、乾物屋の祖父が余った煮干しを紙袋へ詰めていた。
「それ、持って帰るの?」
「店のもんや。捨てるならうちで食う」
「じいちゃん、さっき犬にあげたって話してたじゃない」
「わしはまだ犬を飼うとらん」
千鶴が笑って袋の口を閉じる。透は洗ったグラスを布巾で拭き、中尾の話を彼女へ伝えた。
「十五年くらい前の夏に、マルが帰らなくなったらしい。宗さんは探したそうだ」
「死んだのを見た人は?」
「まだ聞けてない。中尾さん、帰り際にも何か言いかけてたんだけどな」
世話役が戸締まりの確認に来て、宗一郎の家の鍵は明日預けられると知らせた。見積もりの立ち会いについて、親族からも許可が出ている。
「裏庭の犬の石だけは、動かさんといてな。宗さん、毎年あそこの草を刈っとったから」
「犬の石って?」
「マルと彫った小さいやつや。奥の畑の先にある」
透は帰りの手帳に、屋根、床、家財、と見積もりの項目を並べ、その下へ犬の石と書き足した。帰り支度をしていた千鶴は、まだ中尾の傘だけが玄関に残っているのを見つけ、世話役へ預けに行った。




