第2話 宛先のない一言
常光寺の本堂には、朝から椅子の脚が床を擦る音が響いていた。
沖田宗一郎の葬儀は明日の午後。町内会から頼まれたパイプ椅子は七十脚あり、透が十脚ずつ並べるたび、住職の白木隆源が入口に立って通路の幅を確かめた。
「十脚ずつ七列でいいですか」
「端の列をもう少し内側へ。宗さんの知り合いには、杖をついて来る方も多いので」
「七十脚入れると、出入りが難しくなりませんか」
「実際に並べてから決めましょう。倉庫に戻すのはいつでもできます」
白木は最後の列を透に任せ、裏へ回った。供花の名前札が一枚足りず、花屋へ電話をかけるのだという。
千鶴が来たのは、透が三列目まで運び終えたころだった。乾物屋の配達箱は自転車に積んだまま、入口から本堂を覗き込んでいる。
「こんなに来ます? 宗さん、一人暮らしだったのに」
「町内会がこの数を頼んだんだ。先にこっちを持ってくれ」
「余ったら、片づけるのも私たちですよね」
「そこは間違いない」
千鶴は一脚を持ち上げ、座面の裏についた埃を袖で払いかけてやめた。寺から借りた雑巾を取りに行き、帰ってくると椅子を二脚ずつ運び始めた。昨日の草刈りで泥をつけた袖は、今日はきちんと洗ってある。
十時過ぎ、町内会の世話役が座席表を持って現れた。鉛筆で何度も書き直された紙には、入口に近い席を希望する人が二人、車椅子で来るかもしれない人が一人いると書かれていた。
「人数だけ数えとったら、通れんようになってしもうた。すまんが、この列を動かせるか」
「椅子を一つ減らした方が早いですね。通路の幅、測ります」
「減らした分はどこへ置く?」
「壁際へ待機させます。必要なら出しましょう」
透が巻尺を伸ばし、千鶴が紐で通路の線を仮に示す。世話役は入口から実際に歩いてみて、白木が戻ると段差に掛ける板も相談した。寺の板は別の場所で使うため、町内会の倉庫から借りることになった。世話役が鍵を取りに行くあいだに、千鶴は椅子の脚についた古いテープを剥がした。
「七十脚って、並べるだけで終わらないんですね」
「人が座るからな」
「明日までに私が覚えてるのは、どの椅子がぐらつくかくらいかも」
千鶴は問題のある椅子を一脚だけ廊下へ出した。透は脚を畳み直しても直らないことを確かめ、代わりを倉庫から運んだ。壊れた椅子を使って怪我人が出たら、明日の葬儀どころではない。
作業の途中で千鶴の携帯が鳴った。母親から、午後の納品を早めてほしいと頼まれたらしい。千鶴は配達先を二軒言い直してから電話を切った。
「お昼には戻ります。こっち、あと何脚ですか」
「椅子は足りてる。机を一つ動かしてくれれば終わりだ」
「なら、それまでは時給が発生しますね」
「伝票に書いとけよ」
白木が戻ると、二人は法要に使う木の机を据えた。一本だけ短い脚の下へ薄い板を挟んでいると、透は昨日の餌皿を思い出した。
「和尚さん、宗さんの犬、知ってますか」
「マルですか。昔、境内までついて来ては、手水の脇に置いた水を勝手に飲んでました」
「最後に見たのは、いつごろです?」
「ずいぶん前ですよ。宗さんが探しておられた時期もあったけど、私は詳しく聞いていません」
板をもう一枚足すと、机のぐらつきが止まった。透は立ち上がり、宗一郎からマル宛ての言葉を預かったと伝えた。
「墓があるのかも、まだわかりません。犬はもう生きてないと思うんですけど」
「それなら、まず宗さんの家を見せてもらえるか訊いてみては」
「和尚さんなら、死んだ相手にも届くのか知ってるかと思ったんです」
「お経を上げて何でもわかるなら、私はもっと金持ちになってますよ」
「寺がそんなこと言っていいんですか」
白木は返事の代わりに、ぐらつかなくなった机を軽く押した。そこへ花屋から折り返しの電話が入り、布巾を置いて廊下へ出ていった。
昼になり、千鶴は実家の配達に戻った。透は町内会の世話役へ家財整理の立ち会いについて電話し、葬儀が済んだら遠縁の親族に確認してもらえるよう頼んだ。宗一郎の家へは仕事で何度も行っているが、鍵を持っているからといって勝手に捜せるわけではない。
帰りに役場へ寄ると、住民課の窓口で氷見楓が書類の束を抱えていた。透が声を掛けると、彼女は書類を隣の職員に預けて窓口へ出てきた。
「透さん、どうしたんですか」
「犬の登録って、どのくらい昔まで残ってる?」
「何を調べたいんです?」
「沖田さんの犬だよ。昔の会報に写真があって」
透が持ってきた会報を見せると、楓は写真に顔を近づけた。白茶の犬が、紙面の外にいる飼い主を見上げている。
「マル、覚えてる?」
「尻尾を振っても、私には触らせてくれなかったことくらい」
「宗さんには、どこでもついて歩いてたらしい」
「それは見ました。店の前で寝てましたよね」
楓は写真から目を離して、登録と死亡届は別の手続きだと説明した。個別の記録を知人だからという理由では見せられない。透もそのつもりで来ている。
「飼い主の家に、登録の控えとか予防注射の案内が残ってないか調べてください。見つかれば、当時のことを訊く手がかりにはなると思います」
「わかった。家の確認は葬儀のあとだ」
「私、午後は避難所の備品点検なんです。公開されてる古い地図なら、閲覧の場所を後で案内できますよ」
「今日はそこまで急がない。ところで、役場で修理が要るものがあったら便利堂にも声かけてくれ」
「まず自分の店の雨樋を直してください。昨日、下を通ったら水が跳ねました」
透が会報を閉じると、楓は待っている人へ席を空けた。
夕方、便利堂の壁には千鶴が書いた電話のメモが留まっていた。宗一郎の家の家財整理は、町内会と親族が話し合ってから見積もることになったという。透が費用の欄を空けたまま用紙を揃えていると、千鶴が帳場から声を掛けた。
「マル、何かわかりました?」
「登録の仕組みだけ。明日の葬儀なら、昔の犬を知ってる人が来るかもしれない」
「宗さん、誰にでも犬の話してたもんね。探してたころの話も、誰か聞いてそう」
透は祖父の控え帳を棚から下ろした。宛先が見つからなかったときの記録を探すつもりだったが、三十二年前の頁で手が止まる。受け取った日付の横が空欄になった一件があり、欄外へ祖父の字で持越と書かれていた。
「何か載ってます?」
「一件だけ。でも、マルとは関係なさそうだ」
宛先も、届けられなかった理由も記されていない。透は頁の角を折らずに閉じ、会報の上へ重ねた。千鶴が湯を沸かしに立ったので、先に二人分の湯呑みを出した。




