第1話 線香一本もたない
はじめまして。『預かり屋 榊便利堂』をお読みいただき、ありがとうございます。
海沿いの小さな町で便利屋を営む青年と、そこに暮らす人々の物語です。
誰かが残した言葉を届けることで、何が変わり、何が変わらないのか。
まずは、一匹の犬の名前を呼んだ老人のお話から。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
診療所の裏口から、犬の餌皿を抱えた看護師が出てきた。
榊透は草刈り機のエンジンを止め、軍手の甲で汗を拭いた。裏庭の通路を半分ほど刈ったところで、川辺志乃が白い皿を抱えて近づいてきた。洗い残しはないのに縁には古い噛み傷があり、皿の裏には油性ペンで沖田と書いてある。
「榊くん、これも持って帰ってくれない?」
「処分ですか」
「処分するんなら、自分でするわよ。宗さんが、あんたに渡せって」
川辺は皿を新聞紙で包み、荷台の隅へ置いた。指の節が赤くなっている。皿を渡したあとも、すぐには裏口へ戻ろうとしなかった。
「昨日、宗さんに会った?」
「窓の建てつけを見たときに。今日はまだ呼ばれてません」
「呼んでるの。さっきから榊くんはまだかって。草、途中でいいから顔出して」
透は軍手を外した。宗さんこと沖田宗一郎の家へは、庭木の手入れや雨戸の修理で何度も行っている。八十四歳の老人は昨秋に転んでから家に帰れず、透は診療所へ仕事に来るたび病室の窓を拭いていた。
「川辺さん、裏の草は先に刈っておきたいんですけど」
「日が高くなったら、あたしも手が空かない。十分でいいから来て」
川辺は白衣のポケットから端の折れたメモを出した。検温と薬の確認がぎっしり並ぶ余白に、沖田と小さく書き足してある。透が覗き込むと、川辺はメモを閉じてポケットへ戻した。
「わかりました。道具だけ片づけます」
川辺は頷き、建物の中へ戻った。
臥雲町の診療所は海へ下る坂の途中にある。風が止まると裏庭の草まで熱を持ち、軍手をつけた手には朝から汗が溜まった。
透は草刈り機の刃にカバーを掛けて荷台へ戻した。裏庭の通路沿いには、手で抜ける草が一列残っている。刈った分をかき集める時間があるか考えていると、自転車のブレーキが坂の上で鳴った。
「透さーん。今日、ここでしたっけ」
藤木千鶴が乾物屋の配達箱を載せたまま、自転車を止めた。十九歳。実家の店を手伝いながら、週に三日だけ便利堂へ来ている。髪を後ろで一つに結び、片耳のイヤホンを外した。
「配達、終わったのか」
「あと一軒です。坂の上が工事中で、荷物持って遠回りしなきゃいけないんですよ」
「こっちは川辺さんに呼ばれた。宗さんの病室へ行ってくる」
千鶴は配達箱の留め金に指を掛けたまま、裏口のほうへ目を向けた。
「そういう日ですか」
「まだ決まったわけじゃない。草を頼んでいいか」
「配達だけ済ませて戻ります。時間かかったら、日陰のほうからやっときますよ」
透は予備の軍手を渡した。千鶴はそれを配達箱へ放り込み、走り去りかけて振り返る。
「あと、請求書。先週の網戸、まだ出してないですよね」
「帰ったらやる」
「それ、もう三回聞いてます」
自転車が坂を下りきったところで、透は診療所へ入った。
西側の角部屋は窓が少し開いていた。カーテンの裾が風で動き、枕元には口をつけかけた麦茶が置かれている。宗一郎は壁の時計を見ていたが、透の足音がすると、目だけこちらへ向けた。
「遅いのう」
「草を刈ってました」
「草なんぞ明日も生えとる」
「だから今日刈るんですよ」
宗一郎は口の端を動かした。笑い終わる前に咳が出て、透は水差しへ伸びかけた手を止めた。宗一郎が首を振ったからだ。
「皿、受け取ったか」
「軽トラに積んであります。家へ戻しておけばいいですか」
「捨てるなよ」
「捨てませんよ」
「洗うても噛み傷は取れん。あれはそのままでええ」
透は丸椅子をベッドの横へ引いた。いつもの宗一郎なら屋根の継ぎ目や庭の木が気になって、口を開けば仕事を増やしてくる。今日は餌皿の話から先へ進まなかった。
「誰かに渡すものですか」
「まあ、そのうち」
透が窓の留め具を直して帰ろうかと訊いても、宗一郎は今日はいいと言った。ベッド脇の引き出しには、いつもの修理代を入れる茶封筒が置いてあったが、そこから先へ手を伸ばさない。透も請求書を出さず、丸椅子へ戻った。
昼を過ぎてから川辺が来た。宗一郎の袖をまくり、腕に触れてから透へ視線を寄越す。
「榊くん、廊下へ」
廊下の窓際には、清掃の終わったワゴンが寄せてあった。川辺はそこへ透を連れていき、宗一郎が本人の希望として伝えている看取り方と、連絡できる親族にはすでに知らせてあることを話した。最後に、透は付き添いを頼まれただけで、家族の代わりに何か決める必要はないと念を押した。
「それでも、ここにいていいですか」
「宗さんが呼んだのは、あんただからね。ほかの患者が待ってるから、あたしは出たり入ったりするよ。様子が変わったらボタン押して」
病室に戻ると、宗一郎は目を閉じていた。透は窓際へ椅子を移し、頼まれた水差しを手の届く場所へ寄せた。廊下から配膳車の車輪の音が聞こえ、隣の部屋では退院する人が誰かに靴を探してもらっている。透の携帯にも仕事の着信が一件あったが、あとから折り返すと短く返した。
西日が床へ届くころ、宗一郎の呼吸の間が長くなった。透が名前を呼んでも返事はなく、枕の脇に置かれた手が二度動いた。
透は呼出ボタンを押した。川辺が来て、寝台の反対側から宗一郎を見守った。宗一郎は息を吸うたび肩を少し持ち上げ、次の息まで長く間が空いた。声を出そうとして唇を開いたとき、透のほうへ目を向けた。
透はベッドの傍へ膝をついた。
声にはならなかった。それでも、透には聞こえた。病室のかすれた呼吸に重なって、宗一郎が畑で犬を呼ぶときの張りのある声が胸の内に響いた。
「マル。ええ子や」
透は口を閉じ、声が喉へ上がってこないことを確かめた。川辺が宗一郎の名を呼び、手首へ触れる。時計の針を見てから川辺が記録を取りに行ったので、透はベッドの傍から離れた。
祖父は、預かれる時間など線香一本もたんと言っていた。透が今回受け取ったのも、犬の名前を含む短い一言だけだった。
夕方、便利堂へ戻ると、千鶴が裏口の段差に座って草刈りの伝票を書いていた。片袖に泥がついている。
「草、終わりましたよ。川辺さんの確認は明日でもいいそうです」
「ありがとう」
「宗さんは」
「亡くなった」
千鶴はペンを置き、書きかけの金額へ伝票を重ねた。草を刈った区間の確認を訊きかけたが、先に別のことを訊いた。
「……何か、預かったんですか」
「マルっていう名前だ」
「マル? 犬みたいな名前ですね」
透は店の奥から町内会報の箱を出した。祖父が捨てずに残していたもので、年ごとの紐がいくつも絡まっている。宗一郎が犬を連れていたころの写真を探して頁を繰ると、十七年前の夏の号に名前があった。
家の動物を紹介する欄に、白茶の犬が座っている。写真を撮る人ではなく、横から頭を撫でている宗一郎の手を見上げていた。添えられた説明にはマル、十二歳とある。
「十七年前に十二歳……今も生きてたら二十九歳ですか」
千鶴が指折り数えた。
「そうなるな」
透は軽トラックから降ろしてあった餌皿を机へ置いた。新聞紙を外すと、縁の噛み傷から洗いきれなかった水が少し滲んだ。宗一郎が最後まで捨てずに持っていた皿だった。
「この子に届けるの?」
「そのつもりで預かった」
「じゃあ、今どこにいるんですか」
透は答えず、写真の裏にある会報の日付をもう一度確かめた。




