第28話 出しとかんとね
火曜の朝、便利堂の留守番電話には、竹岡ハツの声が二度入っていた。最初は昨日の夕方。二つ目は今朝早くで、庭を切ってもらった礼と、実が倒れた日のことを聞きたいという用件を、同じ調子で話している。
透が受話器を置くと、千鶴が昨日の作業伝票を持ってきた。
「今日、行くんですか」
「本人が二回呼んでる。佳代さんには、先に電話する」
「電話してから、取り消されても?」
「そのときは、返事を聞く」
佳代はすぐに出た。今日は仕事へ行く前に母の洗濯を済ませるつもりだったらしく、水を流す音が電話の向こうで続いていた。
『母が勝手に電話したんです。私、呼んでません』
「わかっています」
『何しに行くつもりなんですか』
「ハツさんが、あの日のことを俺に聞きたいと言っています。行けば、お兄さんの言葉も出ます。止められません」
『昨日、庭の仕事だけ終わらせる言うたでしょう』
「昨日はそうしました。今日は、ハツさんからの用件です」
少し離れたところで、ハツが「誰からや」と尋ねる声がした。佳代は受話器を押さえたらしく、そのあとしばらく物音しか聞こえなかった。
『来るなら、私がおるときにしてください。午前の仕事、代わってもらいます』
「十時半に伺います」
『母が途中で苦しくなったら、私は母のそばにいます。榊さんは、先に帰ってください』
「はい」
電話が切れた。透は千鶴に午前中の店番だけ頼み、使わないはずだった工具箱の取っ手を確かめた。庭の仕事は昨日終わっている。それでも、箱にはこたつの脚に合う工具が入ったままだった。
※
佳代は一度出勤の服を着てから、また部屋着へ戻った。母の前で仕事を休む理由を尋ねられると、今日は店長が早めに上がらせてくれたのだと答える。実際には、あとで別の日の棚卸しへ回る約束をした。
「兄ちゃんのことで、榊さんに訊くこと、あるんやろ」
「あるよ。あの人、庭におったからな」
「私も、病院の人から聞いた話はあるで」
「知っとる。あんたはあんたの話をしてくれた」
ハツは居間に小さな座布団を一枚増やした。こたつの敷布団は昨日、押入れから引っ張り出して畳の隅へ置いてある。天板は重くて動かせず、脚は去年外したままだ。客用の座布団をもう少し襖のほうへ寄せると、向こう側から座った人の顔が見えなくなる気がして、また戻した。
佳代は母が出した座布団を元へ戻そうとしたが、ハツに手を払われた。
「人を呼んどいて座るとこなくしたら、あかんやろ」
「母さん、今日聞く話は、しんどい話になるかもしれん」
「わたしが訊くんや。聞かんかったら、あの日、何があったかわからんままや」
ハツはそこまで言ってから窓を閉めた。庭に風が入ってきていた。佳代はもう一度、棚卸しを代わってくれた同僚へ短い礼のメッセージを送った。
※
十時半より少し前、透は竹岡家の門を開けた。佳代が玄関の外へ出てきていたので、そこで足を止める。居間の襖は閉じられており、ハツの姿は見えなかった。
「まだ帰れますよ」と佳代が言った。
「そうですね」
「母は、兄が倒れた日のことを聞きたいだけなんです。実がもう帰って来んとわかったら、どれだけしんどいか」
「今日、俺が入れば、言葉は出ます。そこは変えられません」
佳代は玄関の戸を閉めかけ、やめた。奥から母が「入ってもらい」と呼んだからだ。佳代は靴を脱ぐよう透に身振りをし、先に廊下を歩いた。
透は背中へ一言かけようとしたが、まだ何も言わなかった。廊下の途中に置かれた手すりは、去年自分が取り付けたものだった。居間の前に来たとき、佳代が振り返る。
「わたしは、今日でも反対ですから」
「聞きました」
「聞いたなら、覚えといてください」
佳代が襖へ手を掛ける。内側からハツが自分で開けた。座布団を寄せるため身をかがめていたハツが顔を上げ、廊下にいる透と向き合った。
透は挨拶することも、声を抑えることもできなかった。
「かあちゃん、こたつ、出しといて」
実が庭で倒れたときに聞いた声だった。口を動かす力は透のものだが、出てきた一言の言い方は実のままだった。言い終わると、それまで身体の内に留まっていた声はなくなった。
ハツは襖の縁に手を掛けたまま、透を見ていた。
「……あの子、そう言うたんか」
「はい」
「線を買うて来てくれたんやろ。佳代が、箱を見せてくれたわ」
佳代は何か言いかけた。ハツが振り向かないので、娘はもう一度口を閉じる。
「実は、帰ってこんのやね」
ハツは座布団へ腰を下ろした。透は廊下に座ったまま、救急車に乗せられたあとのことを知らない自分が何を答えるべきか考えた。佳代が母の隣へ膝をつき、実が搬送先で亡くなったことを自分の口で伝えた。
「お葬式も、済ませたんか」
「……うん。金曜に」
ハツは、窓のほうに顔を向けた。作業の済んだ山茶花の上に、残してもらった枝が見える。そこを眺めているあいだ、誰も次の言葉を急がせなかった。やがてハツは取り出したハンカチを顔へ当て、鼻をかんだ。
「何で、あの子の仕事の人にまで嘘つかせたんよ」
「母さんが病院におったし、私は」
「佳代。あんた、いつ寝たん」
「そんな話、今せんでええ」
佳代は立ち上がって台所へ水を取りに行った。ハツはハンカチを畳み直し、透に向かって、実が倒れる前に何をしていたのかを訊いた。透が箱を運ぼうとしたと答えると、ハツは目の下を拭った。
「出しとかんとね」
佳代が水を持って戻ったとき、ハツは押入れのほうを指していた。
「今日はあれ、出しておきたい。実が持ってきた線も、まだ箱のままやろ」
「母さん、今日は休んだほうがええよ。明日にしよ」
「今日でええ。あんた一人で持たんでええから」
佳代は水の入ったコップを置き、透の工具箱を見た。もう帰ってほしいのに、天板を母ひとりで持ち上げさせるわけにもいかない。畳の隅へ寄せていた敷布団を佳代が広げるあいだ、透は押入れから天板を運んだ。
※
古いこたつは、去年外した脚を取り付けると少しだけ傾いた。透が脚のねじをいったん緩めて位置を直しているあいだ、佳代は実が買ってきた電源コードを箱から出した。ハツは畳に座ったまま、ひとつひとつ道具の行き先を指図した。
「敷くのはそっちが表や。佳代、また裏返しにしとる」
「去年も言われたわ、それ」
「去年は実がひっくり返したんやろ」
佳代は布団を直した。透は古い接続部と買ってきたコードの表示を照らし合わせ、問題なく接続できることを確かめてから電源を入れた。しばらくして布団の端をめくると、ハツが足先を少しだけ入れた。
「まだ暑いわ」
「そら十月やし」と佳代が言った。
「ほな、消しといて。置いとくだけでええ」
透は電源を切り、空になったコードの箱と包装紙を工具箱へ入れて道具を片づけた。ハツは彼に礼を言おうとしたが、途中で実の名を呼んでしまい、ハンカチを持ち直した。佳代は母の横へ座ったまま、透が出ていくまで顔を上げなかった。
玄関の上がり框で透が靴を履くと、佳代が廊下から追ってきた。
「兄の声を届けるのが榊さんの仕事なんでしょう。こっちは、今夜も明日も母と一緒におるんです」
「はい」
「母が呼んだんは知ってます。でも、榊さんが来んかったら、今日はこんな日にならんかったかもしれん」
「申し訳ありません」と透が言うと、佳代は「母には、また明日もあるんです」と返した。彼女は手すりにつかまって母が居間へ戻る音を聞き、透の返事を待たずに戸を閉めた。透は工具箱を荷台へ収め、敷居に置き忘れた軍手を取りに戻りかけて、そのまま自分のポケットに入っているのを見つけた。




