第26話 鳴らない日曜
日曜の朝、ハツは隣の松井から借りていた糸切り鋏を新聞紙で包んだ。袋の口を縫ってから返すつもりだったが、途中で布がつれてしまい、一度ほどいたままになっている。玄関まで持っていって草履を履いたところで、庭の塀を一周した昨日の疲れを思い出した。
「松井さんとこへ行くん?」
洗濯籠を抱えた佳代が、廊下から声を掛けた。
「鋏、いつまでも借りとるわけにいかんやろ」
「昼に届け物持ってきてくれる言うてたよ。そのとき渡したら」
「返しに行くんと、持ってきてもらうんとでは違うわ」
ハツは草履を脱いだ。言い返しても、昨日までなら一人で歩いていけた距離を娘が気にすることに変わりはない。新聞紙の包みを台所の卓上へ置き、まだ洗っていない湯飲みをひとつだけ流しへ運んだ。佳代は「そこへ置いといて」と言ったが、母は聞かなかった。
実からの電話は、日曜の夕方と決まっていた。県外へ出たばかりのころは母のほうに話すことがなく、受話器を握ったまま二人で天気を言い合った。近ごろは向こうから電気代や薬のことを尋ねてきて、ハツが「そんなことより、ちゃんと飯食べとるか」と訊き返す。先週はこたつの古いコードの差し込み口を写真に撮って送れと言われ、佳代に携帯を借りた。新しいものを買うと言っていたから、今週はその話だろう。
台所の窓から庭を見下ろすと、途中まで切られた山茶花の枝が塀の外へ伸びている。水曜、実は段ボールを縁側へ入れようとしていた。箱が板に当たり、手が滑った。榊の若いのが駆け寄ったあたりまでは見たのに、そのあとは診療所のベッドで目を開けるまでつながらない。佳代は兄が別の病院で治療を受けているとしか言わない。会社の人と連絡を取っているという話も、いつも娘の口から聞かされる。
ハツは電話帳を開き、実の勤め先の代表番号へ指を置いた。日曜だから出荷場の人はいても、母親の長話に付き合う人などおるまい。結局、受話器を持ち上げずに帳面を閉じた。
※
昼前、松井は浅漬けを入れた容器を持って来た。佳代が洗濯物を二階へ運んでいるあいだ、ハツは借りた鋏を紙包みのまま返した。
「袋、まだ出来てへんの?」
「口を縫ったらひきつってしもた。針を刺すところからやり直しや」
「そら、糸が太かったんと違う」
「糸のせいやない。目ぇが悪なったんよ」
松井が布袋を手に取ろうとしたので、ハツは取り戻した。「自分で直せるわ」と言ってから、庭の枝のことを尋ねる。松井は昨日、剪定の途中で片づけられた枝を寄せておいた。次に榊が来る日も佳代から聞いているらしい。
「何でわたしに言わんのやろ。庭を頼んだんはわたしやで」
「佳代さんも、段取りで手いっぱいなんやろ。月曜は診療所に一緒に行くんやって」
「わたしは診てもろうたらええ。実はいつ戻れるかね」
松井は漬物の容器の蓋を閉め直した。
「わたしが庭に出たときは、榊さんがもう救急車を呼んどった。実さんが何を言うたかまでは知らんのよ」
「ほな、向こうの病院のことも」
「そこまでは聞いてへん」
ハツはそうかと答え、昆布の入った煮物鉢を松井のほうへ押した。食べて帰れと言うと、松井は夕方に孫が来るからと断り、代わりに味つけだけ訊いていった。松井が帰るころ、佳代が階段を下りてきた。客へ出した茶を飲みきっていないことを見つけ、母の前では何も言わず湯飲みを片づけた。
午後、ハツは縫い物の続きを始めた。鋏を返してしまったので、布袋の口から飛び出した糸は、針箱の中の古い小鋏で切った。いつもの椅子に長く座っていると腰が痛む。こたつの敷布団を出して床へ広げるだけならできるだろうかと思ったが、佳代から明日は診察だと念を押されている。押入れを少し開けただけでやめ、布袋を電話の横へ置いた。
※
夕方四時、佳代は県道沿いの喫茶店で透と会った。昼のうちに母の夕飯を下ごしらえしてから出てきたので、時計を気にしながら席へ着く。鞄には来週の勤務表と診療所の受診票が入っていた。
「明日の朝、母を診療所へ連れて行きます。家におらんあいだに、庭の続きできますか」
「できます。千鶴にも午前中の予定を確認しました」
「帰る前に全部片づけてください。母は榊さんに礼を言いたがっとるから」
「わかりました。作業が終わったら連絡します」
佳代は紅茶に砂糖を一杯入れた。匙を置く場所が見つからなかったのか、皿の縁へ何度も当ててから口を開いた。
「兄が残したん、何ですか。母に聞かせるようなことなんですか」
「こたつを出しておいてほしい、と。いつもの頼み事です」
「……そんなん、去年も言うてたわ。わたしが出した布団、また干し直して」
透は頷いた。実が庭へ持ち込んだ箱も、脚だけ外したままのこたつも、昨日までならただの片づけ仕事だった。
「それを兄の声で聞いたら、母はもう帰ってこんとわかる。あんたが言わんかったら身体に何か起こるんは知ってます。でも、明日も明後日も一緒におるんは私です」
「俺の都合で会いに行くことはしません」
「うん。庭の仕事だけ、お願いします」
佳代は母が昼に食べ残した煮物のことを話しかけ、言い直した。食べられなくなったのは昨日からではない。診療所で薬を調整してもらう予定もある。その説明を透にしても、母の夜の世話が軽くなるわけではなかった。
会計はそれぞれで払った。佳代は店を出るなり車へ向かい、透は駐車場で翌朝の作業予定を手帳へ書き直した。今日が預かって五日目。明日の庭仕事を終えても、宛先へ会わずに帰る約束だけが決まっている。
※
佳代が家へ戻ると、ハツは実の買ってきた乾麺を三束、鍋へ入れようとしていた。
「二人やったら、そんなに食べきれんよ」
「明日の昼に残したらええやろ」
「麺はのびるやん」
「ほな二束にしとこ。あの子、何でこんなぎょうさん買うてきたんやろ」
ハツは一束を元の箱へ戻し、鍋を娘へ譲った。時計がいつもの通話の時刻を指すと、台所を出て居間の電話の前へ座る。実の職場の番号は開いたままの電話帳からすぐ見つかった。
いつまで経っても電話は鳴らなかった。
「日曜も、仕事してるんかね」
「出荷の都合があるんやろ」
「明日、榊さん来るんやったら、実が倒れたときのこと訊きたかったのに」
佳代は流しに置いた鍋を洗っていた。明日は母が家にいない時間に庭を済ませてもらう、ともう一度話す。ハツは受話器を置いたまま、朝から縫い直している布袋の口を指で引いた。まだ糸が少しだけつれている。




