第25話 机の位置
土曜の避難訓練は、受付に使う長机のうち一台だけ脚が縮んでしまい、始める前から通路を塞いだ。氷見楓は名簿を抱えたまま、それを一度広間へ戻すよう町内会の人に頼んだ。
「これ、去年も同じでしたよね」
「去年は板を噛ませたんや。どこ置いたかな」
「今から探すより、受付を隣へ移しましょう。足元の悪い方の通路が先です」
訓練の責任者は首を振りながらも、机を動かすのを手伝った。楓は受付票を一枚ずつ数え、途中参加の親子が家族欄と個人欄の両方に書かれているのを見つけた。片方だけ消して数え直す。受付を一度移したせいで記入台も狭く、集計は昼までかかった。
透が役場から頼まれた電球の交換に来たのは、ほとんどの参加者が帰ったあとだった。楓は脚立の置き場だけ案内し、片づけを済ませてから建物の外へ出た。透も工具箱を持ってついてきた。
「竹岡さんのこと、町で聞きました。昨日、お葬式だったんでしょう」
「そう。ハツさんには、まだ」
「知ってます。佳代さんからじゃなく、近所の人が話していて」
楓は言い直して、受付票の束を脇へ寄せた。佳代から直接聞いたかどうかで、透が自分の話し方を変えるかもしれない。
「それで、透さんは何をしに、あそこの家へ行ったんですか」
「置いてきた梯子を取りに。裏口だけ借りた」
「届けるつもりはなかった?」
「今日のところは」
透は工具箱を地面へ置いた。昨日、松井の声が聞こえるまで門を閉めずにいたことを話すと、楓は壁際のベンチに腰を下ろした。
「わたしが佳代さんなら、家へ来る日を全部知らせてほしいです。『庭の仕事だから』で済ませて、顔を合わせたら出るんでしょう」
「会ったら、俺の意思じゃ止められない」
「だったらなおさらです。佳代さんがお母さんと暮らしてるんですよ。透さんは届けたら、そのあと帰れる」
訓練の荷物を積んだ車が、駐車場から出ていった。楓の携帯に職場から着信が入り、受付票の番号をひとつ確認して通話を切る。透は言いかけた問いを飲み込み、彼女が報告用紙を鞄へ戻すのを待った。
「ハツさん自身が、話を聞きたいと言ったら?」
「透さんが聞きたいように聞いたら、そう言うかもしれませんね」
「それを確かめに行ったら、確かめた時点で届く」
「そう。だから、他の人と同じように本人の返事を聞くことができない。わたしはその危なさを無視したくないんです」
透は手袋の縫い目に残った木くずを払った。楓が役場の権限を使ってハツの体調を調べられないことはわかっている。楓が話しているのは、以前から知っている透と、同じ町で暮らす家族のことだった。
「届けないと、七日を過ぎてしまう」
「透さんの言葉が消えるんですよね。そこまで含めて、わたしも嫌です」
「俺にそれを選べとは言ってない?」
「選ばなくていいとも言えません」
楓は持ち帰る報告書を鞄へ入れた。避難所の受付に来た人と来なかった人の数は確かめられるが、竹岡家が誰を家へ入れるかまで役場の職員が決める仕事ではない。
「この話に、役場の名前を使わないでくださいね。わたしも使いません。友達として意見は言います」
「うん」
「わたしは、今は行かないほうがいいと思ってます」
透は工具箱を持ち上げた。楓は予定表へ残りの作業を書き足し、体育館の鍵を閉める人が来るまで待っていた。
※
透が帰ったあと、楓は訓練に使った机の修理費を確認した。去年はその場で板を挟んで済ませたが、今年は足元の悪い人の通路へ机が飛び出すところだった。報告書には机の状態と、次の訓練までにする作業を具体的に書く。透との会話をここへ混ぜる理由はない。
「全部、便利堂に頼みます?」と同僚が尋ねた。
「見積もりを取ってからですね。買い替えのほうが安いものもあります」
楓は倉庫へ戻す係を呼び止め、破損した脚に赤いテープを巻いてもらった。札には日付と、次に使う前に修理の要否を確認する担当者名を書く。帰りかけていた同僚が「備品の番号、こっちでええ?」と指さしたので、楓は報告書と照らして訂正した。
夕方、佳代から楓の私用の携帯へ短い電話が入った。母の診療所の予約を取り直したこと、兄の葬儀を親族だけで終えたこと。そのあとで「榊さんがまた来るかもしれん」と言った。楓は透の代わりに何か約束することはできないと伝え、休めるときに食事を取ってほしいとだけ答えた。佳代は返事をせず、次の薬の時間があるからと電話を切った。
楓は通話のあと、手帳に書いた佳代の診療所の予約日を破り取って私用の鞄へ入れた。次の勤務日に提出する報告書には、訓練で実際に確認した机の寸法と通路幅だけを残す。帰宅してから、次の受診日は聞いたが送迎の手伝いを申し出ていなかったことを思い出した。すぐに掛け直すと佳代は夕飯の途中で、「必要になったらこっちから頼みます」と言った。楓は二度目の電話を短く切った。
※
夕方の乾物屋は、注文の電話が四件重なっていた。千鶴は母が書いた伝票を順番に並べ、売り場にない昆布を倉庫から持ってくる。今日は便利堂の勤務日ではない。
「竹岡さんのとこ、昆布の種類が変わったって連絡あったよ」と母が言った。
「先月は太いのやったけど」
「今は薄いのでええらしい。いつも佃煮にするって言うてたやろ」
千鶴は母の字の上から、種類と値段だけ赤で書き直した。あとから記録が合わなくなるのが嫌で、電話をかけてきた佳代へ確認してから出荷する。
「おばあちゃんに、薄い昆布って伝えといてください。来週、ちゃんと持っていきます」
『わかりました。母に言うておきます』
「あと、榊便利堂の仕事とは別の伝票になります。こっちの注文は、うちの店のほうへ」
電話の向こうで佳代が短く礼を言った。千鶴は配達の籠へ新しい伝票を差し込み、母から翌日の休みをどうするかと訊かれる。
「明日は店、手伝わんでええよ。先週の休み、便利堂へ行ったんやろ」
「それとこれとは別やん」
「別にするなら、あんたも休まな続かんで」
千鶴は売り場のシャッターを下ろす途中で手を止めた。明日は半日だけ友達と会う約束をしている。便利堂の電話を取りに行けば、また流れるかもしれない。
店を閉めてから透へ電話し、明日は乾物屋も便利堂も休むと伝えた。透は一度、明日の予定を確かめ、それから「わかった」と言った。千鶴は自転車の鍵を探しながら、透が今夜も店で仕事をしているのかだけ聞いた。
「見積もりを二つ書いてる」
「竹岡さんのは、まだ書かないでくださいよ。木、全部切ってないんで」
「わかってる」
「あと、透さんが全部うまくやろうとせんといてくださいね。相手の家にも都合があるんですから」
返事を待たずに電話を切ると、母が売上金を金庫へ入れ終えたところだった。千鶴は今日の自分の仕事の控えを渡し、月曜の配達順だけ訊いて帰った。




