第23話 代わりの当番
木曜の朝、佳代は家の冷蔵庫から母の薬の表を外し、診療所へ持っていった。看護師から受け取った新しい用紙と重ねると、飲む時刻が少し違う。昨日までの表は母自身が書き込みを足していたので、佳代は変更になった箇所だけ赤で囲った。
「母さん、朝の薬はもう飲んだ?」
「看護師さんが持ってきてくれた。あんた、仕事は」
「今日は休み取った」
「また迷惑かけたんか」
診療所のベッドに座ったハツは、自分の枕の下から洗い立てのハンカチを引っ張り出した。家へ戻れば洗濯物が溜まっていると気にしていたが、昨日の庭で何が起きたかは聞かなかった。ときどき廊下へ目をやるので、佳代は入口に背中を向けたまま話した。
「実は」
「向こうの病院や。こっちは母さんが落ち着いてからな」
「容体はどうなん」
「私もまだ、全部聞けてへん」
その言葉だけは、佳代が今朝までに聞いたものを正確に表していた。兄が助からなかった理由も、倒れる直前に何をしていたかも、昨日の夜に説明を受けた言葉をいま繰り返せる自信がない。医師からは母の具合についても負担を避けるよう説明を受けたが、息子の死をいつどう伝えるかの答えを出してもらったわけではない。
佳代は枕元の水を取り替え、退院後の診察日を確認した。母を自宅へ連れ帰れる見込みが立つと、廊下で勤務先の店長へ電話を掛けた。
「週末まで休ませてもらえますか。来週の棚卸し、朝から入ります」
『棚卸しまで気にせんでもええよ。そこは代わる人を探す』
「探してもらうだけでも、お願いします。私の担当の冷凍庫、扉が閉まりにくいんです。朝の人に伝えておかんと」
店長は少し笑って、必要な引き継ぎをメモした。電話を切ると、佳代は別の番号へ掛けた。葬儀の相談をする親戚、兄の職場、搬送先で受け取る書類。兄が普段どういう順で休みを取っていたか、職場の人だけが知っている話もあった。
県外の倉庫からは、実が新人の研修を引き受けたばかりだと聞かされた。上司はその話を途中でやめ、家族へ送る私物の確認に移った。佳代は机に向かっていた兄の姿を思い浮かべようとしたが、記憶にあるのは母の家で家具を逆さにしている背中ばかりだった。
※
佳代は診療所の窓口で受け取った説明書類を、いったん自分の鞄から全部出した。兄についての紙、母の診療所の紙、葬儀社へ渡す紙。どれも似た大きさで、急いで入れたせいで順番がばらばらになっている。整理していると、兄の職場から電話が入った。
『休暇の申請が途中になっとりまして。こちらで手続きしますから、竹岡さんに新しく書いていただくものはありません』
「兄の机の私物は、どうなりますか」
『確認したうえでまとめて送ります。今日中でなくても構いません』
相手の声は事務的で、佳代もそれに合わせて返事をした。本人がもう二度と出勤しないことを、電話の両側でわざわざ言葉にする必要はなかった。通話が終わると、母の薬の一覧表を上へ載せる。今日の夕方、いつもの時間に何を飲ませるかは、こちらの紙を見なければ間違える。
葬儀社からは霊柩車に同乗する人の人数を訊かれた。佳代は受話器を耳に当てたまま、診療所の廊下に置かれた長椅子へ座った。兄の職場から来る人の席までは数えていなかったし、遠縁の叔母にはまだ式の時間も知らせていない。母を連れていかないと決めた以上、その理由を親戚へ伝える役も自分に回る。「決まったら折り返します」と答えて通話を終え、今夜の母の食事を誰に頼むか、手帳の別の頁へ書いた。
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昼すぎ、透と佳代は診療所から少し離れた喫茶店で会った。佳代が先に来ていて、席の隅に葬儀社から渡された封筒を伏せてある。透は茶を頼んでから、庭で起きたことを順番に説明した。
「兄の声は、あんたに入ったんですね」
「そうです」
「母の前に立ったら、勝手に出るんでしたね。昔、町の人から聞いたことがあります」
「止められません。だから、あの家へは勝手に行きません」
佳代は封筒の端を爪で押した。会わせなければ七日で何かが起きる、と透が話すと、彼女はすぐに顔を上げた。
「それは榊さんの話です。母の身体と引き換えにはできません」
「わかっています。だから話しに来ました」
「わかってへんと思いますよ。母の夜の薬が切れたら、私が店を抜けて取りに行くんです。呼吸が苦しい言うた夜も、そばにおったの私や。兄は年に何回か帰って来て、良いところだけ直して帰る。悪く言いたないけど」
最後まで言わず、佳代は冷めた珈琲を飲んだ。透は彼女の前で何度も口を開きかけたが、代わりに湯飲みを持った。実が何を残したか知っている自分と、兄の死を知らせないと決めた佳代のあいだに、いま役割を入れ替える方法はなかった。
「お母さんに、俺が会わないようにします。庭の仕事も、いったん止めます」
「葬儀は明日です。母には来てもらいません。町の人に、あの人のところで実の話をせんよう、私からお願いしてます」
「全部、黙っておけるでしょうか」
「わかりません。それでも、今日の夜は黙っておきたいんです」
佳代は明日の葬儀社との集合時刻を確かめ、店員を呼んで珈琲をもう一杯頼んだ。透は何か手伝おうとしたが、家族が誰を式に呼ぶかまで口を挟めない。明日の剪定を延期し、脚立を回収するときも母親と顔を合わせない。その二点だけ確認して店を出た。
※
夕方、佳代が診療所へ戻ると、ハツは着替えを袋へ詰めていた。
「もう帰れるって言われた。松井さんが洗濯物取り込んでくれたんやと」
「明日の朝まで、見てもらったら」
「家の布団のほうが寝られる。先生と話してき」
退院の手順を済ませて家へ戻るあいだ、ハツは庭の山茶花の上が残っているかを気にした。佳代は明日の午後に便利屋へ連絡すると答えた。母の靴を揃え、勝手口を開けると、実が縁側の下に置いた箱がまだそこにある。
「重たいもん、あの子が買うてきたんやろ」
「新しい電源の線と、乾麺。線は私が見とく」
「乾麺は先に台所へ入れといて。虫が来るで」
佳代は箱を開き、乾麺だけ取り出した。コードは包み紙ごと残し、あとで人目につかない場所へ移すつもりでいた。ハツは家へ入ると薬の表を冷蔵庫へ貼り直し、書き直した時刻の下に自分で小さな丸をつけた。
佳代が寝支度を終えたころ、ハツは台所からもう一度聞いた。
「実の入院、長うなりそうなんか」
「まだ、わからん」
「そう」
ハツは布巾を干し、診療所から持ち帰ったハンカチを洗濯籠の底へ入れた。佳代は兄が置いていった車の鍵を鞄から出し、仏間の箪笥へしまった。今夜、母が実の車に気づいて何か尋ねたら、答えはまだない。




