第20話 持っとけ
引き戸が開き、杖をついた老人が職員と一緒に入ってきた。
透が「榊です」と名乗るより早く、喉の奥から声が押し出された。
「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」
老人が足を止めた。透も自分の口を押さえかけたが、言葉はもう全部出ている。預かった夜から身体の内側を占めていたものが消え、代わりに、昨夜の睡眠不足を思い出すような疲れが来た。
「……北野か」
老人の声は低かった。付き添っていた職員が二人を見比べ、面会室の戸を閉めるかどうか迷っている。老人は自分で椅子を引き、杖をテーブルの横へ立てかけた。
「一人でええ。何かあったら呼ぶ」
職員が部屋を出てから、透は改めて名乗った。榊便利堂を継いだ二十七歳だと告げると、老人は「先代の孫やな」とだけ言った。
「いま、北野っておっしゃいました?」
「北野修一。わしの工場におった男や。あいつ、どこで死んだ」
「臥雲町の県道です。六日前、車を運転していて事故に遭いました。俺がたまたま通りかかって」
透は最初から、事故車へ近づいた経緯と、男が最後に預けた言葉について説明した。耳には聞こえない声が自分にだけ届くことを話しても、老人は驚かなかった。先代の便利堂がしていた仕事を、すでに知っているようだった。
「お前が届けんかったら、どうなる」
「七日で、届けられなくなります」
「間に合ったんか」
「はい」
老人はそれ以上、預かり屋の仕組みを訊かなかった。卓上の湯呑みを手元へ寄せ、蓋の裏に残った水滴を指で拭った。透は老人が口を開くまで待った。
「北野は、いっつも余計な荷物を抱える男やった」
早瀬昭三はかつて、港の近くで鉄工所を営んでいた。造船所から小さな金具を頼まれるたびに、七人の従業員が加工台を取り合った。北野が入ってきたころは、学校を出て間もない若者で、溶接面のガラスを割ったときにも言い訳をしなかったという。
「給料から引けって言いよったから、わしが新しいガラスを買うた。道具は壊したあとで困っても遅い。次は置き方を見とけと怒鳴ったら、翌朝には道具箱の場所まで変えとった」
昭三はそこまで話して、突然、透の軽トラックはまだ走るのかと訊いてきた。透が年式と走行距離を答えると、「戸倉のところで見とるなら大丈夫やろ」と頷く。透は昨日、航の工場で事故車を見たことを伝えた。
「北野さんの車には、古い真鍮の鍵がありました。番号札に三と残ってました」
「三番倉庫や。あの鍵か」
昭三は湯呑みを置いた。透が鍵の現物は警察の管理下にあると付け加えると、老人は首を横へ振った。
「勝手に持ってこんでええ。あれは、わしが返してもらわんかった鍵や」
十五年前、造船所の注文が途絶え、工場を閉めることになった。機械を売り、借りていた倉庫を空にし、従業員には新しい勤め先を探してもらった。残りの道具を最後まで運んだのが北野だった。
「倉庫の戸を開けて、荷が残っとらんか見に行った。あいつ、帰りに鍵を出しよったんや。いつも通りの顔で『早瀬さん、これ』言うてな」
昭三は両手を膝に置き、右の親指で左手の古い火傷跡を擦った。
「いらんと言えば済む話やった。もう借りとらん倉庫やし、すぐ錠前も替わった。それでも持っとけ言うた。何かあったら、また使うかもしれんからって」
「北野さんは、それからも持ってたんですね」
「電話かけてくるたび、返す言うとった。わしは急ぐなって答えとった」
言い終えると、昭三は舌打ちした。返してもらえばよかった、と言うより、自分が何年も同じ返事をしていたことに腹を立てているように見えた。
透は古い鍵の形を手帳へ描いてあるが、今ここで見せても意味があるか迷った。昭三が求めたのは、番号札でも合鍵でもない。けれど、北野がなぜ最後にあの言葉を選んだのかは、昭三自身にもわからないままだった。
「工場を閉めてからも、墓の草だけは抜いてくれとった」
「常光寺ですか」
「毎月、電話で何か言うんや。今日は草が伸びとったとか、石屋の車が来とったとか。こっちに遊びに来い言うても、行く用がないって」
透は常光寺へ行ったことを話した。早瀬家の墓誌には三人の名があり、事故車にも三つの位牌があった。ただ、位牌の名までは確認できていない。寺には先月、早瀬本人が生きているうちに墓を片づけたいという電話があったとも伝える。
「誰が勝手にそんな話をした」
「名乗らなかったそうです。北野さんかどうかも、確かめられてません」
「わし、墓を畳むなんて一度も頼んどらんぞ」
昭三は杖を掴み、立ち上がりかけた。透が呼びかけると、老人は椅子へ座り直した。怒っている相手がどこにもいないことを思い出したのか、しばらく中庭の散水を見ていた。
「……あいつ、わしが死んだあとのことまで考えとったんか」
透には返事ができなかった。推測の段階のことを故人の意思として告げるわけにはいかない。昭三もそれ以上訊かず、今度は、北野の家族へ警察から連絡が行ったのかと尋ねた。透はそこまでは知らないと答えた。
「そしたら、わしは何をすりゃええ」
「事故の件なら、警察へ、北野さんをご存じだとお伝えできます。必要なら、ご本人に連絡先を渡してもいいか、ここで許可をいただきたいです」
「それはええ。お寺は、わしから電話する」
「三番の鍵は、警察が持っています」
「持ち主の確認がついたら、わしへ話を回してくれ。今度は、受け取る」
昭三は職員を呼び、常光寺の番号を調べてほしいと頼んだ。施設の決まりで、外部へ個人の連絡先を伝える際は本人の確認が要ることを知っていたので、電話を掛ける前に自分の名前を紙へ書いた。
「北野さんは、息子さんみたいな……」と透が言いかけると、昭三は鋭く遮った。
「みたいな、やない。わしは息子やと思っとった。あいつのほうは、最後まで早瀬さんやったけど」
透は言い直さなかった。昭三は紙に住所を書き足そうとして、途中でペンを置いた。警察に渡す連絡先は施設の番号だけでよいと言う。
面会室を出る前、昭三は透を呼び止めた。
「お前が持ってきた言葉には、返事できんのやな」
「はい。俺の口から出たのは、預かったものだけです」
「そうか。ほんなら、あいつの墓のことは、わしが決める。寺と話してからや」
透が頷くと、昭三はもう一度杖を持ち直した。借りた代車の返却時刻が気になって、透は時計を見る。老人はそれに気づいて、「長いこと引き留めたな。戸倉に怒られんうちに帰れ」と言った。
廊下へ出ると、職員が署名の必要な面会記録を持って待っていた。透は入館時刻と退館時刻を確かめて記入し、昭三の意思で連絡先を預けたことも職員へ確認した。老人はもう部屋へ戻りかけていたが、透に気づいて杖を持ち上げる。挨拶のつもりらしく、すぐに下ろして歩いていった。




