第15話 剥がした跡
朝、透は網戸の張り替えに出る前に、昨日の事故を扱った地方ニュースを確認した。県道の単独事故で、運転していた男性が搬送先で死亡したと伝えている。年齢は五十代とだけ書かれ、名前は出ていなかった。
動画を止めたまま千鶴に連絡すると、返事の代わりに配達中の写真が届いた。山ほど積まれた乾物の箱のいちばん上で、納品書が風にめくれそうになっている。
『今日は昼まで実家です。便利堂の荷物は午後取りに行きます。透さんこそ寝ました?』
透は「少し」と打って送った。すぐ「それ寝てないやつですね」と返ってきたが、修理先の家が近づいたのでスマートフォンをしまった。
客の家では、雨戸の戸車が固着していた。交換品は持ってきたものの、レールに溜まった土を取らなければ新品を入れても動かない。透は水道を借り、泥をブラシで落とした。仕事に集中している間だけ、昨夜の男の呼吸を思い出さずに済んだ。
昼過ぎに戸倉自動車整備工場へ寄ると、航は電話を片耳で押さえ、空いた手で作業予定をホワイトボードに書いていた。透に気づいても指を一本立てるだけで、通話を終えるまで近づかない。工場の片側では整備士が軽乗用車をリフトから下ろし、別の車を入れる準備をしていた。
「昨日の車、まだここ?」
「裏に預かってる。車内は警察が確認したから、勝手に開けるなよ」
「開けない。外だけ見せて」
「先に飯。おふくろが素麺ゆで過ぎた」
事務所へ入ると、航の母が大きなざるを冷蔵庫から出した。三人分とは思えない量を見て、透は航へ目を向ける。
「午後にも人が戻るのよ。あんたら、食べ切らんでいいからね」と母親が先に言った。
「ほら、うちの昼飯を減らしに来た便利屋」と航が笑う。
透は皿を受け取った。航の母は草刈りで知っている近所の人の話をしたあと、事故現場にいたと聞いたが怪我はなかったのかとだけ尋ねた。透が頷くと、胡瓜の浅漬けをもう一皿出してくれる。男が亡くなったことを話す機会はあった。結局、透は素麺を食べながら、午前の戸車の傷み具合を航に説明した。
「じゃあ今度、うちの事務所の棚も頼むわ」
「車を直す人間が蝶番を直せないのか」
「修理代を取るぞ。お前がやれば俺は本業へ戻れる」
航の母が「まず去年の借りた工具、返しなさい」と口を挟み、航が黙った。透は二杯目の麦茶を飲んでから席を立った。
事故車は裏の屋根の下にあった。車体の前面はシートで覆われているが、側面には昨夜見えなかったものが残っていた。白い塗装の一部が四角く淡く、そこだけ周囲の日焼けから取り残されている。
「マグネットの看板だな。たぶん屋号を貼ってた」
航が境目に触れずに説明する。
「貼ってたときの跡って、いつ剥がしたかわかる?」
「何年も前なのはわかる。日付までは無理。こっちは毎日手を掛ける場所だろ。擦り傷のほうが新しい」
透は少し離れて側面全体を見た。車の後部には細長い工具を出し入れした傷があり、荷室の敷物は角が反っている。車体が十四年落ちだと航に教えられ、古い看板を剥がしたあとも長く走らせていた人なのだろうと思った。
「運転手、身元わかったのか」
「警察には俺の知る範囲しか聞かれてない。会社の車じゃなくて個人名義かどうかも、こっちには教えんよ」
「昨日、車内に番号札のついた鍵があった」
「見たのか」
「救急が来る前。小物入れが開いていて、三だけ読めた」
航は何度か頷いたが、すぐに答えを探そうとはしなかった。透が持っている手掛かりは、事故車の中を勝手に調べても増えない。昨夜から警察が必要なものを預かっている。
「お前、また変な仕事か」
「宛先が早瀬って人。名前はわからない」
「そりゃ難儀だな。町の人間かどうかもわからんだろ」
「まず、車がどこで使われてたか調べる」
「古い会社の跡なら、看板から当たるのが普通だけどな。跡しか残ってないのが困るわ」
透は車の前輪に付いた乾いた泥を見て、昨夜までどこを走っていたのか考えた。海沿いの車なら潮の白い跡くらいあるが、事故車にはそれさえ見当たらない。住んでいる町が違えば、看板の意味も違う。航は「走った場所なんてタイヤ見てもわからんぞ」と先回りして言い、工場の水道からホースを片づけた。
航は工場の事務所へ戻りかけ、途中で思い出したように振り向いた。
「荷室の写真なら、警察が来る前に外から撮ったやつがある。レッカーの作業記録用だ。事故車を触らずに撮った側面だけなら見せる」
画面には白い車が屋根の下へ運ばれる前の姿が写っていた。透が目を凝らしても、色の抜けた四角に文字はない。車内の遺留品や運転手の名前が写っているわけでもなかった。
写真の隅には、道路に置かれた三角表示板が小さく写っている。最初に通報した男が持ってきたものだと、航に言われて気づいた。あの夜、自分がずっと車の横にいられたのは、後続車を止めてくれた人がいたからだった。名前を訊く暇もなかった。透が礼を言いそびれたことを話すと、航は「警察には連絡先が残っとるだろ。必要なら向こうから来る」と答えた。
「役に立たないだろ」
「でも、跡の形はわかる。どんな看板だったか、車を使ってた人なら覚えてるかも」
航は、写真を送る前にこの車を仕事の宣伝へ勝手に使わないことだけ約束させた。透は側面の一枚を受け取り、事故車の近くを離れた。
帰り際、航の母が事務所から出てきた。余った素麺を持たせようとするので、透は夕飯にすると言って受け取る。航が「棚の件、忘れるな」と背中へ声を投げ、母親が「まずうちの脚立を返してもらい」と追い打ちをかけた。
軽トラックに戻った透は、自分の作業手帳へ鍵の絵を描いた。真鍮の頭は丸く、番号札の右上が欠けていた。昨夜見たものをそっくり再現できるほど鮮明には覚えていない。思い込みで線を足さないよう、わからないところは空けておいた。
玄関先の手すり修理を頼まれていた客から、来週の訪問日を一日前にずらせないかと連絡が来た。透は工具を発注済みであることと、相手が午後なら在宅していることを確かめてから、予定表を直した。預かり仕事に入ったからといって、請けている修理を無断で後回しにするわけにはいかない。
透は母親の素麺を助手席へ置き、家業の配達から戻った千鶴に、明日手が空く時間を聞いた。千鶴からは「午前は忙しいです。まず用件を言ってください」と返ってきた。透は描きかけの鍵をスマートフォンで撮り、どこかで見たことのある形かもしれない、と短く添えて送った。




