第14話 頼まれていない
カーブを抜けたところで、前を走っていた乗用車のブレーキランプが点いた。透はアクセルから足を離し、車間を残して減速する。道路の先では白い軽自動車が斜めにガードレールへ突っ込み、左のテールランプをこちらへ向けていた。さっき見えた赤い灯は、あれだったのか。
乗用車が事故車を避けて止まったので、透も路肩へ軽トラックを寄せた。ハザードを入れ、座席の後ろから反射ベストを引っぱり出す。降りてみると、右側の車線からは事故車がほとんど見えない。緩いカーブが、ちょうど見通しを遮っている。
「救急は?」
先に止まった車の運転手が電話を耳へ押し当てたまま頷いた。
「いま場所を説明してます。車の中に人がおるみたいで」
「俺、見てきます。後ろから来る車、止めてもらえますか。道路には出ないで」
「わかりました。警察も呼びます」
透は事故車へ近づいた。ボンネットは折れ上がり、運転席側のドアは前から押されている。足元でガラスを踏む音がした。車内から煙は見えない。運転席の窓が半分下がっていたので、透はそこから手を差し入れてエンジンを止め、男へ呼びかけた。
少し離れた場所に止まった配達のバイクから、ヘルメットを脱いだ男が降りてきた。前方の交通を誘導しようかと訊かれ、透は警察が着くまで歩道側の安全な場所で待ってもらえるよう頼んだ。誰も事故車を動かせず、カーブを抜けた車がまた急ブレーキをかけていた。誰かが一台でも安全なところへ誘導してくれるだけで、救急車の通る幅が残せる。
「聞こえますか。救急車を呼んでます」
男が目を動かした。五十代くらいだろうか。額に血が伝い、シートベルトに押さえられた胸が不規則に上下している。助手席には使い込んだ作業靴が置かれ、後ろには段ボールが二箱、紐で留められていた。
「お一人ですか」
「……ひとり」
「わかりました。動かないでください」
電話をかけていた運転手が近くまで来た。救急から事故車の状態を訊かれ、代わってほしいという。透は電話口の指示に従い、男の反応と呼吸を伝えた。ベルトを外すべきか尋ねると、救急隊が着くまで無理に動かさず、呼びかけを続けてほしいと言われた。
スマートフォンを返すと、先の運転手は停車車両の後方へ戻った。透は窓に片手を掛け、男の顔が見える位置でしゃがむ。ダッシュボードの小物入れが衝撃で開き、紙片と鍵が散っていた。真鍮の古い鍵には、角の割れた番号札が付いている。数字の三だけが読めた。
「お名前、言えますか」
男は何か言おうとしたが、痛みが先に来たのか、口を閉じてしまった。透は訊き直さなかった。呼吸のたびに、喉の奥で濡れたような音がしている。
後ろでクラクションが鳴った。止められた車の運転手が窓を開け、大きく迂回できないのかと怒鳴っている。最初に通報した男が何度か頭を下げながら、警察が来るまで待ってほしいと説明していた。透の軽トラックにも工具と脚立が積んである。交通を片づけたくなる気持ちはわかったが、運転席から離れるわけにはいかなかった。
「あと少しで来ますから」
男の目が透のほうを向いた。握っていた右手が一度緩み、肘が座席の横へ落ちる。透はその手を取ろうとしてやめた。今、必要なのは知らない人間に勝手に触れることではない。
ただ、男の呼吸が途切れるのを見ているうちに、別の感覚が始まった。喉の奥に、まだ聞いてもいない言葉を入れるための隙間ができる。診療所で宗一郎に呼ばれたときも、立花トキの言葉を受け取ったときも、この前触れだけはあった。
今日は誰にも頼まれていない。
「……今、それは」
透が言いかけると、男の唇がかすかに動いた。事故車の外では聞き取れないほど小さな声だった。それが、透の内側にはっきり届いた。
「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」
透は口を閉じた。聞かなかったことにはできない。胸の奥へ落ちてくるものに抗いながら、男の顔を見て呼び続ける。返事はなかった。もう一度呼んだとき、男の胸が動かなくなった。
遠くからサイレンが近づいてきた。透は道へ出て手を振りかけたが、先に停めていた運転手が救急車を誘導している。到着した隊員にそれまでの経緯を伝え、窓の前を空けた。消防が歪んだドアを広げる間、透はガードレールに沿って後ろへ下がる。男が車内から運び出され、救急隊員が処置を続けたまま救急車へ乗せるところまで見届けた。
救急車が出るまで、事故の車線を通れるようにと警察官が大声で指示していた。透もライトを落として待つ車へ手を振り、救急隊員の使った空き箱を路肩からどけた。自分の身体に預かったものがあることを、仕事が済んだあとで考えるようにしないと、手元のことさえ間違えそうだった。
警察官に呼ばれたのは、その後だった。路肩で事故を発見した時刻と、車へ近づいた経路を聞かれる。運転手から何か聞いたかと尋ねられ、透は、ひとりだと答えたことを話した。
「ほかには?」
「声は出していました。ただ、耳では聞き取れませんでした」
警察官は聞こえたことだけを手帳へ書いた。透が見た番号札も伝えると、遺留品を確認する担当へ知らせておくと言い、事故車には近づかないよう指示した。
レッカー車が着いたころには、事故現場の後方へ車の列ができていた。降りてきた作業服の男が透を見つけ、手を止める。
「お前、ここで何してんだ」
「航のところが呼ばれたのか」
「うち以外も忙しいんだよ。……怪我は?」
「ない。俺は通りかかっただけ」
戸倉航は警察官の呼ぶ声に振り返り、車の固定位置を確かめに行った。透はそれ以上話しかけず、通行再開まで軽トラックで待った。運転席へ戻ると、佐知子の美容室の納品票がポケットから半分飛び出していた。今朝、設備屋が来る前に届けた分だ。書類を押し込み、手についたガラスの粉を濡れた布で拭った。
帰宅を許されたのは日付が変わってからだった。便利堂の裏口を開け、明日の仕事表を見て、午前の修理に遅れないよう目覚ましを合わせる。古い新聞の束は棚の下にある。透は紐へ触れず、別の棚から預かり仕事の控え帳を出した。
洗面所で掌の小さな切り傷に気づいた。事故車のガラスだろうが、いつ切ったのか思い出せない。消毒して絆創膏を貼り、明日の網戸に触るとき邪魔にならないか、指を曲げて確かめる。
氏名欄は空白にした。事故の場所とおおよその時刻、宛先の「早瀬さん」、それに、窓越しに見た鍵の番号だけを書いておく。警察へ伝えた番号と、透が預かった言葉が同じ物を指しているかどうかは、まだわからない。
あの男の仕事を、いま引き受けたという実感はなかった。断る相手も、断る時間もないまま始まってしまったのだ。透は翌日の伝票の横に、期限の一日目を小さく記した。




