第13話 よその子
朝九時の少し前、透は美容室の前へ軽トラックを止めた。
六日目になる。トキから預かった言葉はまだ身体の内にあり、これが園田佐知子へ向けられたものなのかも、確かめられていない。昨夜、電話で会うと決めたのは佐知子自身だ。もし本人が気を変えていたら、仕事道具だけ預けて帰るつもりでいた。
戸の内側には段ボールが積まれ、鏡を外した壁に白い四角が残っている。ガラスには内側から紙が貼られていて、店の奥までは見えなかった。
透が戸を叩くと、内側で鍵を回す音がした。
「はい。今、開けます」
園田佐知子が顔を出した。
「ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった」
トキの声が、透の口から出た。
佐知子は戸を押さえていた手を緩め、反対の手にあった鍵を落とした。金属の音がして、二人とも足元を見る。透が拾おうとすると、佐知子が先に屈んで鍵を取った。
「……奥さんの声やね」
「立花さんから、最期に預かりました」
「こんな言い方、あの人しかせんわ」
佐知子は戸を開けきり、透を中へ通した。昨夜の電話で、もし自分が宛先なら会った瞬間に言葉が出る可能性があると聞いていた。それでも扉を開けたのは自分だと、佐知子はそう言ってから、作業用の丸椅子を引き寄せた。
「座ってください。こっちの椅子は、まだ脚が外れてへんので」
「仕事の前に、お話しできる時間はありますか」
「九時半までなら。設備屋さんが十時に来ますし」
美容室には鏡が一枚だけ残っていた。かつて客の顔を映していた鏡に、向かい合って座る二人が入っている。佐知子は自分の後ろに積んだ段ボールをひとつ押し、足元の場所を空けた。
「何に対して、謝ってはるんでしょうね」
透は首を横に振った。頼まれたのは短い言葉だけで、トキが何を思って選んだのかまでは分からない。
「うちの子やと言わんかったことかもしれんし、別のことかもしれん。あの家におった間、ちゃんと食べさせてもろたし、学校も行かせてもろたんです。でも、嫌やったこともあります」
佐知子はそこまで言って、椅子の高さを下げた。仕事ではいつも客の目線に合わせていたのに、自分が使うときの高さは決めていなかったらしい。
「出ていくとき、よう頑張ったね、って言われたんです。あれ聞いて、もう帰って来る場所やないんかなと思うたことがある」
「……そうだったんですね」
「そのとき訊けばよかった。ほんまは、そういうつもりで言うたんかって。けど訊かへんかったんは私やし、あの人も何にも足さんかった」
透は佐知子が言葉を探すのを待った。何についての謝罪かを、故人に代わって決めることはできない。そう伝え直そうとしたとき、佐知子が片手を上げた。
「榊さんに答えを求めとるんやないです。こっちが何か言うても、奥さんまで戻っていくわけでもないでしょう」
「はい」
「今日やったら、腹立っとることもある。明日になったら、また別のこと思い出すかもしれん。それは、仕方ないわね」
佐知子はレジの下から写真を一枚取り出した。数日前に康夫から受け取った運動会の写真で、白い帽子の少女が紙袋を二つ抱えている。
「これ、康夫さんが持って来てくれはったんです。あとの写真も見るかって言われたけど、まだ返事してへん」
「それは、急いで決めなくても」
「ええ。本人にそう言いました」
佐知子は写真を袋へ戻し、引き出しへしまった。通夜にも葬儀にも行かなかったことを、自分から話し始めることはなかった。透も訊かなかった。
九時半になる少し前、佐知子は立ち上がった。
「仕事のほう、お願いします。これ以上話してると、設備屋さん来てしまう」
※
十時に設備業者が到着し、シャンプー台につながる給水を止め、排水管も外した。透は取り外しの終了を確認してから、床を傷つけないよう台の脚に布を巻いた。下のねじは長年の水気で固まっており、無理に回すと頭を潰しそうだったので、浸透油を少しつけて待つことにした。
佐知子は取り外した部品に印をつけ、運ぶものと処分するものを分けた。千鶴は午前の乾物屋の配達を終えてから来る予定で、今朝の話には立ち会っていない。
「その棚、まだ外さんといて。奥に娘の箱があるから」
「先に箱を出します。支えだけお願いできますか」
「うちの店のことは分かっとりますよ」
佐知子が棚の脚を支えると、奥から最後の薬液の控え帳が出てきた。処分業者へ渡したものの一覧と、残りの容器の数が書いてある。佐知子はページを数え、抜けがないことを確かめてから、帳面を自分の鞄へ入れた。
昼前に千鶴が来た。荷台の空き具合を見て、先に鏡の箱を載せようとしたが、透からシャンプー台の脚を先に積むよう頼まれた。
「これ、横にしたら壊れません?」
「横にして運ぶつくりだけど、こっちへ厚い布を入れよう。金具が当たる」
「了解。佐知子さん、白いタオルは娘さんのほうで合ってます?」
「白いのは持っていく。青いのが回収やで。昨日も書いたでしょう」
「書きましたけど、間違えたら怒られるんで」
「そういうとこは、えらい慎重なんやね」
千鶴は箱の行き先をもう一度大きく書き、軽トラックに載せた。透が壁のねじ穴へ補修材を詰めている間に、佐知子は棚の中の櫛を数え、最後の一本を紙袋へ入れた。昨日の客へ返すものらしい。
「届けに行く約束、したんですか」
千鶴が訊いた。
「昨日、行ってきた。これ、また別の人の分。店が閉まると、取りに来る言われても渡せんやろ」
「配達のついでに持って行きましょうか」
「自分で持っていく。顔見て渡すほうが、あとで名前を間違えんで済む」
佐知子は櫛の袋へ宛名を書き、ほかの荷物とは別に、持ち歩く鞄へ入れた。
片づけが終わると、佐知子は運搬費の明細を確認した。設備業者の請求とは別であること、千鶴が昨日引き受けた二時間分も清算済みであることを確かめ、透には修理の追加分だけ払うと言う。
「言伝の分も払わんと、何や気持ち悪いですね」
「その仕事の代金は、いただいてません」
「じゃあ、こっちの請求書はちゃんと出してください。別の話やから」
透が頷くと、佐知子は財布を鞄へ戻した。緑色のヘアピンは小さな布袋に、運動会の写真は硬い封筒に入れている。二つとも自分で持ち、娘が迎えに来るまで美容室の鍵を手の中で転がしていた。
※
その夜、娘の家で夕飯を終えた佐知子は、運動会の写真を食卓へ出した。
孫は白い帽子の女の子を指し、だれと訊いた。佐知子が自分だと言うと、今と全然違うと笑い、写真の裏に名前がないことを不思議がった。
「これ、もらったん?」
「昔の家の人が、持ってきてくれた」
「ほかにもあるの?」
「あるらしい。まだ見てへん」
「今度、取りに行く?」
娘は皿を片づけながら言った。佐知子は写真を引き寄せ、孫の宿題の紙に飲み物が掛からないよう、食卓の端へ移した。
「もうちょっとしてからでええわ」
娘はいつもの調子で、じゃあそのとき車を出すと言った。佐知子は写真を封筒へ戻し、緑のピンを使わずに髪を耳へ掛けた。
※
便利堂では、千鶴が請求書の金額を二度確認していた。運搬費に追加した壁の補修材が一袋まるごとの値段になっており、透は使った分だけに直すよう言われた。
「次の仕事で使える分まで請求したら、佐知子さんに怒られますよ」
「そうだな。これなら大丈夫?」
「はい。あと、先月の網戸、まだ出してないです」
透は封筒へ宛名を書いた。立花家から譲ってもらった古新聞の束は、荷台から降ろしたあと棚の下へ置いたままになっている。今日は箱詰めにも使わなかったので、紐を解く理由がなかった。
千鶴を実家の前で降ろすと、商店街の先では祭りの屋台を積んだ車が道路の端を塞いでいた。透は港を避けて県道へ回り、夕方の仕事の納品票を運転席のポケットへ入れた。
カーブが近づいたところで、透は前方に赤い灯が見えるのに気づき、速度を落とした。




