第12話 閉店まで
乾物屋の藤木家では、贈答用の昆布を箱へ詰めるとき、千鶴の母親が必ず一度だけ裏返して確かめる。箱の底に値札の糊が残っていることがあるからだ。
「佐知子さんとこ、お茶を届けたら戻ってきなさい。今日は夕方の入荷が早いから」
「戻りますよ。四時までには」
「この前もそう言うて、中尾さんのとこで地図広げとったやろ」
「あれは配達が済んでから」
千鶴は納品書の金額を確かめ、自転車の荷台へお茶の紙袋を載せた。今日は実家の仕事の日で、便利堂の勤務は入れていない。透から電話があっても、店を開ける代役まで引き受けるつもりはなかった。
美容室へ着くと、入口の内側に段ボールが積んであった。佐知子はタオルの棚から青いものだけを下ろし、濡れたものと分けている。閉店まであと一日なのに、鋏とドライヤーはいつもどおり手の届くところへ並んでいた。
「佐知子さん、お茶です。請求書は袋に入ってます」
「ああ、助かった。あとで振り込んどくわ」
「明日、ほんとに閉めるんですか」
「お客さん、もう入れません。明日の最後の一人が帰ったら、鍵掛けます」
佐知子は紙袋を開け、茶葉の袋を棚へ置こうとして、そこがもう空になっているのに気づいた。結局、箱へ戻した。
「一人で片づけてるんですか」
「娘も来るけど、大きいものの引き取りと時間が合わんの。あんた、店の仕事あるやろ」
「四時には戻って、在庫を数える約束してます。そのあと二時間なら手伝えます」
佐知子が値段を訊いたので、千鶴は一時間千四百円と答えた。便利堂を通さない、自分の時間だけの仕事だということも伝える。
「友達みたいな顔して来て、きっちり取るんやね」
「荷物、間違えて捨てたら困るでしょう。無料の手伝いやったら、途中で帰るかもしれませんよ」
「えらいこと言うわ。この箱だけ、先に見といて」
母親へ電話すると、在庫数を終えたら行ってもよいが、夕食までには帰るよう念を押された。千鶴は佐知子へ、四時から六時までと書いた紙を渡した。自分の商売をすると決めた以上、終わりの時刻を曖昧にはしたくなかった。
※
同じ日の昼、透は立花家で仏間の棚を移していた。
今夜が通夜になる。康夫と兄は、親戚用の布団を押し入れから出しながら、残す物に貼る付箋の色を相談していた。透が持ち込んだ台車に載せるのは、二人の確認が終わった箱だけだ。
「榊さん、きのう佐知子さんに会ってきました」
康夫が先に切り出した。昨日、写真袋を持って美容室へ行ったこと、昔の運動会の写真を一枚だけ受け取ってもらったことを話した。
「園田佐知子さん。旧道で美容室をしてます。名前は伝えてええと言われました」
「会っても構わないそうですか」
「ただ、店を閉めるまでは来んといてほしいって。明日が最後の営業日です」
透は台車を止めた。立花家の写真の女性がそうだと分かっても、トキの宛先だったと決まったわけではない。けれど、本人が会う日を選んでいる以上、その前に店へ押し掛けるつもりはなかった。
「連絡を差し上げるのは、閉店してからにします」
「母さんの仕事、佐知子さんに関係あるんですか」
「まだ、俺にも確かなことは言えません」
康夫は答えを求め続けなかった。玄関に積んだ布団の数が一枚足りないことに気づき、兄を呼んだ。透は残った棚を台車へ載せ、廊下の曲がり角をぶつけないように運んだ。
押し入れの下段には、古新聞の束が二つ置いてあった。片方の一番上に、十五年前の八月の日付がある。康夫は母がなぜそれだけ取っておいたのか知らず、兄も保存するつもりはないと言った。
「梱包に使えるなら、持っていきますか。古紙として処分するつもりですし」
「今すぐ要るわけじゃありませんけど、うちで使わせてもらっていいですか」
「どうぞ。上の束を持ってってください。下のは、こっちで食器を包むのに使います」
透は二人に同じ内容を確認してから、十五年前の八月の日付が載ったほうの束を軽トラックへ運んだ。紐が緩んでいたので結び直し、荷台の道具箱の横へ寝かせておく。今日の作業で使う箱には、別の緩衝材を用意してあった。
夕方、透は作業代の控えを康夫へ渡し、通夜には私服に着替えて来ると告げた。母親の片づけを終えるかどうかは、兄弟で決めてもらうつもりだった。
※
四時ちょうどに美容室へ戻ると、千鶴は真っ先に手を洗った。
佐知子は使いかけの薬液の処分先へ電話している。千鶴が青いタオルを全部箱へ詰めようとすると、奥の二枚だけは乾かしてから回収袋へ入れてほしいと、受話器を押さえながら指示された。白いタオルは娘の家へ持っていく。その区別を箱へ大きく書いてから、千鶴は鏡台の下を掃除した。
床には細い髪の毛がまだ残っている。足元のコンセントを抜かずに引っ張りかけ、佐知子から叱られた。
「先に棚のコード抜かな。何十年もここに置いとるから、線が裏で絡まっとるんです」
「危な。次はちゃんと見ます」
「次の店はないんやけどね」
佐知子はからりと笑い、千鶴の手元から古い櫛を一本取り出した。客へ貸しっぱなしだったものが今日返ってきたらしく、裏に名前が彫られている。捨てる箱へ入れかけた千鶴は、店の控えに残っていた持ち主の住所を確かめるため、梱包を中断した。
「返すんですか」
「返す。あの人、同じ櫛じゃないと嫌なんやって」
「明日、取りに来てもらう?」
「もう予約は入れへん。帰りに私が届けるわ」
次の作業へ移る前に、佐知子は緑色のヘアピンを棚から下ろした。千鶴が小さい布袋を出すと、佐知子はそれには入れず、鏡台の一番上の引き出しへしまった。
「立花の奥さんが、冬に返してくれたんです。昔、うちが勝手に使うとったの」
「まだ留まるんですか」
「弱うなってるから、仕事には使えん。そんな古いもん、捨てたらええのにね」
佐知子は引き出しを閉めた。しばらく箱の底へ新聞を敷いていたが、千鶴が領収書の宛名を書いていると、ふと思い出したように尋ねた。
「榊さん、今夜、立花の家へ行くんやろ」
「通夜だって聞いてます。私、乾物屋の仕事で行けないんですけど」
「うちは行かん。康夫さんにもそう言いました」
千鶴はペンを止めなかった。人がなぜ弔問へ行かないか、理由を訊くところではない。
「でも、榊さんに会う用事はあるみたいです。何の話か、私は知らんのですけど」
「康夫さんにも聞きました。名前、もう教えたって」
「じゃあ、透さんから電話してもらうよう伝えます」
「今夜はやめて。明日、店を閉めてから。電話なら、聞きたくなかったら切れるしね」
千鶴は時計を見て、予定どおり六時に作業を終えた。佐知子は二時間分の賃金を封筒へ入れ、名前を書いた領収書と引き換えに渡してくれた。自転車へ乗る前に、千鶴は実家へ電話し、店の棚卸しを終えたことも報告した。
通夜から帰った透へ連絡したのは、そのあとだった。千鶴は佐知子が店を閉めるまで会いたくないと言ったことだけを伝え、言伝の内容については何も訊かなかった。
※
翌日、佐知子は最後の客を見送ってから、店の鍵を一度掛けた。
娘が運んできた段ボールに私物を移し、棚の奥へ残っていた古いパーマ液は、予定していた回収業者へ引き渡した。水道につながるシャンプー台は、明日、設備業者が配管を止めてから榊便利堂に搬出してもらうことにしている。見積もりは電話で寸法を伝え、実際に見てから決めることになった。
夕方、佐知子から便利堂へ電話を掛けた。
『園田です。明日の仕事の前に、立花の奥さんのこと、聞かせてもらえますか』
「はい。お会いするのは、いつがよろしいですか」
『朝九時。娘は買い物へ出すんで、その前に来られても困るし、遅いと設備屋さんが来てしまう』
「九時に伺います。ただ、もし園田さんが宛先なら、顔を合わせた瞬間に預かった言葉が出ます。会ってから聞くかどうかは選べません」
『電話で聞くのは、違うんやね』
「はい。お会いするのをやめるなら、今おっしゃってください」
『それやったら、九時に戸を開けます。聞くんは私やから』
電話を切り、佐知子は閉店の紙をガラス戸から剥がした。昨日千鶴が詰めた青いタオルの箱が、明日の引き取りを待って入口の脇にある。壁の時計を外したところだけ、白い丸い跡が残っていた。




