第11話 家族の写真
母が亡くなった翌日、康夫は自分の印鑑を靴箱から見つけた。
昨夜、葬儀社の書類に使ってそのまま上へ置いたのを、今朝になって思い出した。台所の引き出しを三つ開け、ついでに母の通帳まで見つけてからのことだった。
「自分の物くらい、自分で片づけろ」
兄は仏間で座布団を並べていた。遠方の親戚の都合がつかず、通夜は四日目の晩になった。寺と葬儀社の予定も調整してもらったので、二人はそれまで家の仕事を分担することにした。
康夫は台所、兄は仏間と電話。母が使っていた物は、捨てる前に二人で見せ合う。それだけ決めたのに、朝から意見が食い違っている。
「この室内履き、どうする」
「新しいほうは、お前が買ったやつやろ。持って帰れ」
「古いほうは?」
「そんなもんまで訊くな。母さんのやったんやから、まず置いとけ」
康夫は値札のついた室内履きを袋へ戻した。本人が一度も履かなかったものを、自分の家へ持って帰って使う人がいるとも思えない。古いほうは玄関の揃った場所に置いたまま、別の箱を取りに押し入れへ向かった。
茶色いアルバムが十冊ほど出てきた。表紙の端が剥げたものから開くと、父と母、学生服の兄、それに小さな自分が写っていた。ページを進めるうち、途中から見覚えのある女の子が毎年のように現れる。
佐知子が家に来たころだ。
両親を亡くして、親戚の家を転々としていたという話は聞いたことがある。母がどの大人と話し合って引き取ったのか、康夫は知らない。覚えているのは、玄関に小さな靴が増え、毎朝、学校へ行くのに一人分余計に時間が掛かるようになったことだった。
運動会の写真では、佐知子が白い帽子をかぶって、弁当の入った紙袋を二つ抱えている。家へ帰れば母の茶碗の隣に彼女の茶碗があったし、風呂へ入る順番ではいつも最後を譲らなかった。康夫は学校の友達に、妹が増えたと紹介したことがある。
その話を母へすると、今度からそう言わないでほしいと言われた。
康夫はアルバムを閉じかけ、また開いた。なぜ駄目なのかを聞き返すと、母は洗濯物の山を示し、佐知子を呼んできて一緒に畳むよう言った。そのときは腹を立てたが、結局、理由を聞く機会を失った。佐知子も、妹と呼んでほしいとは言わなかった。
兄が仏間から戻ってきた。写真を見せると、しばらくページをめくったあと、高校の入学式の一枚で手を止めた。
「母さん、これだけ写真屋に頼んどるな」
「校門の前で二人並んでるやつか。卒業式のは?」
「見当たらん。まだほかの箱にあるんと違うか」
佐知子が家を出る年、康夫も町の外へ進学した。送る荷物で玄関が塞がれ、最後に挨拶したのは駅だった。母が佐知子に何を渡したか、見ていない。
「この写真、本人に見せたいんやけど」
「全部持っていかれても困るぞ。うちの写真も入っとる」
「欲しいのだけ選んでもらう。母さんが残してたんやし」
「なら、そうしてこい」
兄は康夫にアルバムを預け、自分は寺への電話へ戻った。康夫は写真を年代順に袋へ移し、運動会と入学式のものを一番上に揃えた。
※
午後、榊便利堂から透が来た。
以前頼んだ台所の戸棚の具合と、仏間の棚の足を見てもらうためだった。親戚が増える前に倒れそうな物だけ直したい。透は、残す物と捨てる物を自分たちで決めておいてほしいと言い、勝手に押し入れを開けなかった。
康夫は作業中の透へ、写真袋を一枚だけ見せた。昨日、台所の額縁に入っていた女性も、そこに写っている。
「昔、うちで育った子です。母さんが、よく世話をしとった」
「お名前を伺ってもいいですか。立花さん、宛先を最後まで教えてくださらなかったので」
康夫は袋を閉じた。トキが何を頼んだのか、透は言わないし、自分も今朝まで忘れていた写真だ。佐知子が町にいるからといって、母の用事へ勝手に巻き込んでいいものだろうか。
「先に本人へ、連絡してみます。知らせてええか聞いてからでも、待ってもらえますか」
「わかりました。急ぎの仕事ではありますけど、俺のほうでもほかに心当たりを調べます」
「明日、店へ行ってみます。まだ営業してるはずやから」
透が仏間の棚の脚を測っている間、康夫は写真袋を机へ戻した。母が亡くなる前、同じ家の中にいた佐知子へ会いたがっていたかどうかさえ、康夫には分からない。
透の作業が終わり、見積書に署名すると、康夫は代金をいつ払えばいいか訊いた。透は今週中に請求書を送ると言って帰った。夕方の郵便受けには、病院から預かった書類の入った封筒が届いていた。
※
その翌日、康夫は写真袋を持って佐知子の美容室を訪ねた。
ガラス戸には閉店のお知らせが貼ってある。朝から予約客が続いており、康夫は外のベンチで待つことにした。昼休みになって佐知子が戸を開けると、まず母のことを訊かれた。
「亡くなったんやね。昨日、青果屋さんから聞きました」
「うん。通夜は明日の晩になった」
「私は行きません。身内やないから」
康夫は、来てほしいと頼むつもりでいた。けれど、入口の内側に段ボールが積まれ、佐知子の指には荷造りのための紙テープがついている。弔問に来るかどうかをここで決めさせるのは違う気がした。
「そっちは、佐知子さんの都合でええよ。今日は写真だけ持ってきた」
佐知子は袋の中を見た。運動会の写真を引き出し、帽子が小さすぎて頭が痛かったと、すぐに言った。
「康夫さん、これ、覚えとらんでしょう。奥さんが私のだけ、帽子のゴムを付け替えてくれはったんです」
「知らんかった。俺は弁当のことばっかり覚えとる」
「卵焼きが甘かったんですよ。みんなには好評やったけど」
写真の隅には、レジャーシートの端と母の手が写り込んでいた。佐知子はそこをしばらく見てから、ほかの写真を袋へ戻した。
「これ一枚、もらってええですか」
「もちろん。残りも見たかったら、また持ってくる」
「いまは、この一枚で十分です」
康夫は袋の中にできた空きを確かめた。佐知子が母の通夜へ来ないことには触れず、代わりに榊便利堂の話をした。母が亡くなる前、冬から予約していた仕事があったらしいこと、その相手をまだ伝えていなかったこと。佐知子の名前を出してよいか、透から訊かれたことも話した。
「うちにも、何か?」
「母さんが誰を考えとったか分からん。ただ、榊さんが調べたい言うから」
「名前は伝えてええです。店も隠してへんし」
佐知子は壁の時計を見た。最後の予約まで、まだ少し時間がある。
「でも、店を閉めるまでは来んといて。聞いてから客の髪、切りたくない日もあるやろ」
「わかった。本人にそう伝える」
康夫が帰るとき、佐知子は写真をレジの下の引き出しへしまった。入口の札を営業中へ戻し、次の客を迎える準備を始めた。
※
夕方、立花家へ戻った康夫は、兄が押し入れの新聞を二束出しているのを見た。
母の古い新聞は日付ごとに紐で結ばれていた。一方の束だけ紙が黄ばんでおり、一番上に十五年前の八月の日付がある。「高潮」の見出しは大きく、畳んだままでも読めた。
「なんで、この年のだけ残しとったんやろ」
「母さんに聞かな分からん。捨てるなら、先に中だけ確認するか?」
「今日はもうええわ。明日、榊さんに梱包材が要るか訊いてみる」
兄は紐を締め直して、二束を押し入れの手前へ移した。康夫は運動会の写真のあった空の袋へ、ほかの写真が折れ込まないよう厚紙を一枚入れておいた。




