第8話
十一月の末、船納めの桟橋で、マレクは余った綱を輪に巻いていた。
口上が始まると、つい、声の届き具合を確かめる癖が出た。新しい読み役は声が細い。後ろの端に立った連中が、初めの二人の名を聞き損ねて前へ詰めた。
俺ならここまで届く、と体に力が入った。そのとき桟橋のいちばん前で、カレルの親父さんが立った。女房は赤い頭巾をかぶっている。
息子から紙を受け取り、爺さんは女房の耳に口を寄せた。何を言ったのか、自分で書き取ったはずのマレクにもわからなかった。女房が頭巾の隅で片目をぬぐい、爺さんの肘を小突いた。二人で座るところへ拍手が起きた。
出番が終わると親方が新しい読み役に冬の名簿を渡した。去年、マレクもそこで名を呼ばれた。厚い革表紙の冷たさも、あとの酒もよく覚えている。今年はそこに立つことも、冬の手当を受け取ることもない。この前の給金日、靴屋にはもう一冬この靴を履くから底だけ直してくれと頼んだ。
「マレク、それも倉に運ぶぞ。できたか?」
隣の水門番はもう綱の束を肩に載せていた。マレクの手には、一巻きしたきりの輪がぶら下がっていた。
帰りがけ、船着き場に荷の南瓜がひとつ落ちた。拾いに行くより薄茶の犬のほうが早かった。鼻先で得意そうに転がして、石段のきわでやっと止めた。その拍子に犬の鼻だけが泥に突っ込んだ。大きなくしゃみに驚いて、自分でまた南瓜を押した。
マレクは声を上げて笑った。とっさにすぐ横を見た。ヒルカはああいうのに弱い。笑いきれなくて鼻をつまむから、こっちまで吹き出すのだ。顔だけなら、今もすぐそこにいるように思い出せた。
荷主に南瓜を返し、一人で家へ帰った。曲がった釘に上着を掛けた。ヒルカの好きそうな犬を見たよ、と言える相手も、今ではいなかった。
その午後、町の東の路地に、仕立て屋の小さな看板が出た。桶屋の倉の半分ほどしかない、一人で家賃を払える店だった。看板には草色の糸で「仕立て マルタ」と縫ってあった。
ニナは畳んだままの前掛けを抱え、店の少し手前で足を止めた。窓二つ分に裁った青い布は、ほどいて仕立て直せば前掛けが何枚も取れた。一枚ぐらい、開店祝いに渡せないかと思っていた。
マルタが店先に置いた布見本の籠を直そうとしゃがむと、スカートの下に縞の靴下が見えた。見覚えのある毛糸だった。履き口も踵もまっすぐに揃っている。あれ、上手に編み直したわね。口をついて出そうになった言葉を呑むのは、もう何度目だろう。
「ニナ? あんたもあそこで働くんじゃなかったの。ずっと楽しみにしてたじゃない」
同じ工房の下働きの娘が、後ろから声を掛けてきた。ニナは初めて、マルタ以外の人に訳を話した。
「友達に、もう一緒にはやれないって言われたの。人に聞かせちゃいけない話を、私が酒場で喋ったから」
「何の話?」
「それは、もう言わないわ」
目の前で、あの子の店に最初のお客が入った。マルタは迎えながらニナの姿を見つけ、道のこちらに小さく会釈した。ニナは前掛けを両手で抱え直して頭を下げた。顔を上げたときには、戸の内側で客とマルタが楽しそうに布を広げていた。
手間をかけて縫ったのだから、マルタなら良いところを見つけて褒めてくれる。ニナはまだそれを当てにしている自分が嫌で、前掛けを持ち帰った。翌朝から自分の仕事に使った。紐を後ろで結ぶたび、窓の寸法を測った日に、二人で同じ巻き尺を端から引っ張ったことを思い出した。
船納めの翌朝、私はヤーノと水門から少し下った砂利浜にいた。泥の表だけがうっすら凍り、踏むと靴の下でぱり、と鳴った。
林檎の市からこちら、日曜ごとに会ってきた。雨の日にはうちで川魚の甘露煮を作った。味はどうかと訊いたら、ヤーノは「生姜も食っていいか」と鍋の底からせっせと拾っては、おいしそうに齧った。私の覚え書きの隅には今、彼の字で「生姜は倍」と書いてある。今日は久しぶりに石を投げられる晴れの日だ。
「投げるぞ」
ヤーノは右の手袋を歯で引き抜き、そのまま口にくわえて石を一つ拾った。今度は手前の泥をよく確かめてから、腕を低く引いて、川面すれすれに石を放った。
石がぽんと跳ねた。もう一度、それからもう一度。最後の輪が消える頃になっても、ヤーノは腕を伸ばしたままでいた。
「三回!」
私が言うと、手袋をくわえた口から妙な音がした。笑いながら手袋を取ってやった。
「何?」
「跳ねたな、って言ったんだ」
「ええ、跳ねました。これでもう、音だけで良し悪しを決めなくていいわね」
「今日は音もよかった」
ヤーノは川原にいくらでもある石に手を出さなかった。今ので止めておきたいのが見え見えだったので、私も拾わずにおいた。
手袋を差し出すと「ちょっと持っててくれ」と頼まれた。彼は上着から別のものを出した。何度も開いたらしい、折り目の柔らかくなった紙だった。
「町の南の、鍛冶屋の裏の家を知ってるか。春に空くそうだ。家主に中を見せてもらった」
間取りの図が描いてあった。台所の隣に小部屋がひとつ。暖炉の脇に、釣り針のようなものがいくつも並んでいる。
「これは何?」
「棚だ。お前の石が並んだらこんな顔かと思って」
「顔だったの」
「お前みたいには描けないんだよ」
仏頂面のひとつを指で辿った。片方の眉だけ、やけに上手に下がっていた。
「ヒルカ。俺と結婚してほしい。春から一緒に暮らしたい。家は、ここを気に入ったらでいい」
まっすぐ見られて、初めに口をついたのは、ずっと気になっていたことだった。
「この家は、窓から川が見える?」
「椅子に乗れば、帆の先だけ」
わが家の裏窓なら、座ったまま川を行く舟がいくらでも見える。なのに浮かんだのは、椅子をわざわざ窓まで運んで、ヤーノと二人で爪先立ちをしているところだった。私、そんなところに住みたいらしい。
「あなたと結婚するわ、ヤーノ。その家の窓も一緒に見に行きたい」
ヤーノは鼻をすすって笑った。図面を畳む指が同じ折り目を二度も撫でた。
「ひとつ言い忘れた。庭じゅう山わさびだ。今の借り手が植えたのが、手に負えなくなったらしい」
「じゃあ、先に住んでるわさびに聞いてみないと。私たち、間借りさせてもらえますか、って」
「いいから掘るぞ、春になったら。根っこに俺の顔を描くのはなしな」
「まだ掘ってもないものに注文しないで」
私が預かっていた手袋をはめてやった。彼はまだ笑っていて、親指を入れるところを一度まちがえた。
春、私たちは町の小さな礼拝堂で結婚式を挙げ、鍛冶屋の裏に越した。最後の木箱だけが戸口でつかえた。二人いっぺんに頭を突っ込んで額をぶつけ、手伝いに来てくれた父に「そこは譲り合いなさい」と叱られた。
棚に石たちが収まって、次の休みに、庭を端から少し掘った。ヤーノが土を払うと、二股の脚を踏ん張った根っこが一本、出てきた。頭のあたりには深い皺が寄って、横から生えた細い根は背中で組んだ手に見える。小言を言いに来たおじいさんにそっくりだった。
「誰を叱ってらっしゃるのかしら」
「川を見せろって俺たちを。生まれてこのかた庭を出たことがないそうだ」
私は窓辺に寄せておいた椅子に乗り、手のひらに根っこを立たせて、帆の見える高さまで上げてやった。ヤーノがもう一脚運んできて隣に立った。私の肩に彼の肩がくっついた。赤い帆のてっぺんが、ほんのひとかけら、窓の向こうをゆっくり通った。
「どうです、おじいさん」
私が丁寧にうかがうと、ヤーノは大まじめに、私の手のひらからおじいさんの踵をちょいと浮かせた。
「背伸びしてらっしゃる」




