第7話
日曜の朝、水車小屋の橋で八時の鐘を聞いた。川霧のなかに、とっくに見覚えのある肩を見つけていた。
水車がうるさくて、小走りで近づいても彼は気づかなかった。欄干をとんとん叩くと、この間の紺の上着がようやくこちらを向いた。
「おはよう、ヒルカ」
「おはよう。いつ来たの?」
「七時半。家にいても落ち着かなくてな」
「そんなに待って、何をしてたの」
「上流から丸太が三本流れてきた。あとは聞くな」
水車小屋の裏には、果樹園ごとに木箱がいくつも積まれていた。焚き火の脇で芯をくりぬいた林檎が焼けて、皮の裂け目から汁がぷすぷすいっていた。
人混みの手前で足をゆるめた。この間は袖を借りた。今朝は彼の右の小指に、自分の小指を引っかけてみた。
ヤーノが手元を見た。たまたま触れただけかと思われたらつまらないから、私のほうから指を絡めた。
「今日はこうして歩きたいの」
「ああ。俺もだ」
片手ずつ空いていれば、大抵のものは指せるし選べる。困ったのは林檎を六つ買って、店の木箱から籠に移すときだった。私が籠の口を向けると、ヤーノは空いているほうの手で、一個ずつそろそろ載せた。
「ときどきは放してもいいのよ」
「五つできた。もうひとつだ」
売り手のお婆さんが最後の一個を代わりに載せてくれた。「はい、お疲れ」と、ごく普通の顔で。
お礼を言って、店をいくつか過ぎてから、私はたまらず笑いだした。
「ねえ。私、今朝は早起きしたのに遅れるとこだったの。髪がうまく結えなくて、ピンを絨毯の下に落として。机の下を這ってたら父さんが『朝っぱらから何を拝んでるんだ』って」
「その頭を見るために三十分待ったのか。じゃあこっちへ向け。水車のとこでは霧でろくに見えなかった」
おとなしく向いたら本当にまじまじと見て、「うん、好きだ」と言った。髪が、なのか、そこまで聞く度胸が私にはなかった。
「俺もな、今朝この上着に染みを見つけてさ。井戸で擦って、竈のそばで乾かして、さあ着ようとしたら裏地だった」
「だから今日は薪の匂いがするのね」
そばにいた林檎売りの若いのが吹き出した。ヤーノは自分で上着の裾をめくり、男に裏地を見せていた。私は焦げた跡をちょっとつまんだ。裏地を洗いながら早く八時になれと思っていたのなら、私とおんなじだ。
林檎の形をした土笛の屋台を過ぎて、白樺の並木へ入った。後ろで笛が鳴っていた。あんなに林檎そっくりのくせに、声だけはヒヨドリだ。
「ヒルカ」
「はい」
「こっち向いてくれ。髪はもう見たから」
見上げると、ヤーノの耳は赤かった。せっかく呼んだくせに、私が正面を向いたら、ひと息ぶん黙った。
「俺、お前が好きだ。休みの前の晩は、明日お前に会えると思って寝るんだ。今日はそれを言いたくて来た」
「私も、ヤーノが好き。家を出るとき、手を繋ぐほうだけ手袋を脱いできたのよ」
彼の右手のなかで私の左手がもう一度ぎゅっと握られた。もう片方の手が私の頬のすぐそばで止まった。
「口づけてもいいか」
「うん。今して」
彼の掌は冷たくて、くちびるにだけ息の温かさがあった。もう少し近づこうとして、私の籠が傾いた。林檎がひとつ地面を転がった。
二人とも拾いに行かなかった。もう一度してから、並んで探しに行った。
帰りの橋でヤーノが上着の釦を外すと、内ポケットから薄い封筒が覗いた。私の名が書いてあった。
「それ、私にくれるの?」
「市で言いそびれたら渡すつもりで書いた。もういいだろ」
「よくない。ちょうだい」
彼はようやく渡してくれた。手紙をねだったのは、生まれて初めてだった。
日が傾く頃、ニナはヒルカの家の門の前にいた。出かけるのは見ていなかったが、日曜に林檎の市が立てば、あの子なら暗くなる前に帰ってくる。やがて籠を提げた姿が見えた。
「ヒルカ!」
籠の取っ手がヒルカの指に食い込んでいる。前なら「持つわ」と取り上げて、そのまま台所までついていけた。ニナは手を出しかけて、自分の前で組んだ。
「何かあったの、ニナ」
「お願い、少し聞いて。私、マレクとうまくいってないの。店をやる話も駄目になった。あなたと台所でお茶を飲んでた頃に、一晩でいいから戻れないかと思って」
「酒場のあとで私に会いに来たの、これが初めてね」
そうだった。迎えに行ってあげてとマレクを送り出したときも、自分が戸口に立つのは怖かった。昔からヒルカが本当に怒ったときの顔は、大勢でいるときより二人で見るほうが怖い。
「ごめんなさい。あなたがやめてって言ったの、あの人の隣で聞いてた。聞こえないふりをして、私まで笑った」
ヒルカの目をやっと見られた。許すと言われるまで、ここにいたかった。
「あなたを川から引っ張り上げたとき、本当に怖かったのよ。ねえ、ヒルカ。あれまで嘘だとは思ってないわよね?」
「うん。袖がちぎれるまで離さないでくれたね。助けてもらったことは、ずっと忘れないわ」
「だったら今日だけ、ちょっとでいい。ほかにいないの」
「ニナ。あのね、私、今日いいことがあったの」
思いがけず、いつもの声だった。ニナはちょっと身を乗り出した。
「あなたに話したいなって、帰り道で思ったわ。でも、その先まで浮かんだの。明日の晩には、マレクも一緒に笑ってるところ」
「言わないわ。絶対に」
「それを考えずにお茶を飲めた頃には、もう戻れない。ごめんね、今日は入ってもらえないわ」
ヒルカは自分で門を開け、自分で籠を運んでいった。林檎のひとつだけ、赤い皮に土がついていた。あれ、どうしたの。たったそれだけの問いを、ニナはとうとう訊けなかった。
家の角まで来て、ニナは口に手を押し当てた。どんな話だったんだろう。ヒルカがいいことのあった日に真っ先に走ってきてくれたのは、ついこの秋まで自分のところだった。息をするたび、指の節に涙が落ちた。
その夜、マレクの部屋へ行くと、卓にランプがひとつ灯っていた。彼は昨夜と同じところに腰掛け、親指の爪際をむしっていた。
「ヒルカに会ってきたわ」
マレクの指が止まった。
「俺のこと、何か言ってたか」
「言わなかった。私の話をしに行ったのよ」
どんな話だったか、そう聞いてほしかった。けれど、もし聞かれたら。たかが林檎一個で泣いてさ、と、明日の晩には誰かの話になっているかもしれない。マレクには話せない。そう思って初めて、昼間あの門の外で、ヒルカに何を頼んだのかがわかった。
「昨日、何があったの? あの名簿、返したのね」
マレクは傷ついた指を握り込んだ。
「お前に話したら、今度はどこで誰に言われるかと思う」
ニナはうなずいた。そうやって用心する男と、明日もあさっても二人で向き合って座るつもりだったのか。
棚から糸切り鋏と、青い布の包みを下ろした。
「終わりにしましょう、マレク。明日は来ないわ」
マレクの手が少し動いた。引き止めてくれたら、きっとまた来ただろう。その手は椅子の背をつかんだだけだった。
ニナは釘からショールを外した。彼の上着がついてきて床に落ちた。いつもは拾って重ね直した。今夜は自分のだけを羽織って、部屋を出た。
その晩、私は土のついた林檎を洗って、机へ持っていった。ひと口齧ってから、ヤーノの手紙を開いた。
便箋の真ん中に「ヒルカ、俺はお前が好きだ」とある。下に彼の名前と、片眉の下がった顔がひとつ。口のところだけ、何度も描き直したのか黒くなっていた。
私はあの朝もらった平たい石で、丸まりたがる便箋の端を押さえた。「日曜はうちでお昼を食べて。川魚を煮ましょう」と返事を書いて、その隣に髪のピンが曲がった娘を描いた。
娘の口元に、小さく「私も好き」と書き添えた。




