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私の悪口が尽きたら、二人で何を話すの?  作者: 九葉(くずは)


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第6話

 土曜の午後、勝手口で冬越しの蕪を籠から移していたら、石段のところで足音が止まった。

 マレクだった。油紙の包みを胸に抱えている。制服の上から二つ目の釦が、白い糸一本でぶらぶらしていた。私は麻手袋を外し、蕪の上に置いた。

「何の御用ですか、マレクさん」

 その呼び方に慣れていないのは、私も同じだった。

「そんなふうに呼ぶなよ。これ、川向こうの石窯のやつ。朝の舟で買ってきたんだ。お前が好きだったろ、いちばん硬くて焦げ目のついた端っこ」

 胡桃パンだった。彼は柔らかい真ん中が好きで、私は噛むほど香ばしくなる端が好きだ。非番の朝など、一つ買ってくれば、好きなところの取り合いにならなくていい、と笑っていた。

「覚えていてくれたんですね」

「そりゃ覚えてるよ。お前、火傷した晩だって、もう水はいいから焦げてるとこちょうだい、って言ったろ。俺は傷を残したくなくて、一晩じゅう水に漬けさせそうになったのに」

「残らなかったわ。ありがとう」

 受け取りかけた手を止めた。制服の釦も、裁縫箱にある青い糸なら、今すぐつけ直せる。でも明日の朝も、私はこの人の制服の心配をしていたいだろうか。

 外した麻手袋をもう一度はめた。

「焼き型の話、人にしないでくれって頼まれてたよな。約束を破って悪かった。謝りたかったんだ、ヒルカ」

「はい。聞きました」

「それで、今夜なんだけど。跳ね橋亭に顔を出してくれないか。一度だけでいい」

 パンの紙の角が鳴った。私が返事をしないので、マレクは少し早口になった。

「今夜、川組の寄り合いがあるんだ。俺が行くと黙っちまうやつがいてさ。頼むよ、あの晩は私も面白かったって、お前から一言だけ言ってくれ。そしたら俺も、みんなが見てる前で頭を下げられる」

「私はまた、あなたの隣の席に?」

「そうだよ。そこまでしてくれたお前なら、俺だって大事にする」

 包みは潰れないように両手で持っている。端っこの焦げたパンを私に食べさせたくて、わざわざ舟で渡ってくれたのも本当なのだ。それで私がうなずいたら、今度は笑う場所まで決まっている。

「お断りします」

「ヒルカ! 頼む、これじゃ俺は……!」

「二人で台所で笑ったことなら、私、今でも大事にしてるわ。でも酒場では嫌だった。私を呼んだら、私は皆の前でもそう言います」

 マレクが一歩退いた。糸が切れて、釦が敷石に落ちた。私は腰を屈めなかった。マレクが自分で拾ってポケットにしまうのを待って、勝手口を閉めた。



 その晩の跳ね橋亭に、マレクは仕事鞄と、渡しそびれたパンを持っていった。朝、対岸のパン屋で受け取ったときは、夜までこれを抱えているとは思わなかった。いつもの長机には川組の世話役が揃っていて、その一番奥に同僚のカレルと、父親の爺さんが座っていた。

「おう。爺さんまで来てたのか」

「口上の紙、返してもらいに来たよ」

 鞄から名簿を出した。頁の間に挟んだ書付を取ると、折り目が毛羽立っていた。人前で噛まずに読めるよう、何度も開いて練習したからだ。

 爺さんはこの船納めで、四十年乗った荷舟を下りる。女房に礼を言いたいが、大勢の前では照れて喋れなくなるからと、マレクのところへ相談に来たのだ。書き出しなら、紙を見なくても言える。岸が近づくと、お前の赤い頭巾を捜した。舟を下りたら今度は俺が、お前を迎えに行く。

「内緒にしてくれって頼んだ日に、酒場で喋ったのか」

「声を張るとどう聞こえるか、一度やってみただけだよ」

「女房は昨日、魚を買いに行って、筏の若いのに『おう、俺の赤頭巾!』って呼ばれたそうだよ」

 自分が広げた両腕をふと思い出した。仲間が大袈裟に抱き返してきて、そこがいちばん受けたのだった。

「今朝、あいつは頭巾を裏返して、赤くないほうを表にして出たよ。海老の値段を訊くのに、女房がなんでそんなことをしなきゃならん」

 紙を受け取ると、爺さんは折り目に沿ってきちんと畳み直し、懐へ入れた。そんなにまずいことをしたつもりはなかった。目の前で爺さんの短い指が釦を一つずつ掛けていく間、マレクは何も言えなかった。

 長机の別のところでも手が挙がった。

「じゃあ俺も、弟に頼む。俺のはまだ挟んであるか」

「こっちは息子に読ませるよ。どれ、名前はこの辺か」

 書付を探すのに手間取った。名前はどれも自分が書いたものなのに、頁をめくってもめくっても目に入ってこない。脇にいたカレルが一枚見つけてくれて、ようやく二人ぶんを返せた。誰もマレクと目を合わせなかった。

 最後に川組の親方が手を出した。口上を預けていない人なので、マレクは何を渡すのかわからなかった。

「名簿も返してくれ。お前にはもう頼めん。冬の寄り合いの代読も、ほかに任せる」

「待ってくれ! 今までだって、聞きやすいってみんな喜んでくれたろ。あの桟橋の端まで通る声だって」

「うん。お前の声はよく通る」

 親方は差し出した手を下ろさなかった。

 船の名前と、船頭の名と、読みにくいところには自分で小さく振り仮名をつけた名簿だった。秋が来るたび預かって、今年で三冊目だ。表紙の隅に爪を食い込ませて、ようやく親方の掌に置いた。

 立ったまま自分の座るところを探した。椅子は空いているのに、誰一人、座れと言ってくれない。ヒルカの腕飾りを置いたあたりだけが、ひどく明るく見えた。

「親父に何か言うことは?」

 カレルに呼び止められ、マレクは帰りかけた爺さんにやっと追いついた。

「すみません。俺がふざけました。奥さんにも、謝りに行きます」

「わしから聞いておくよ。会いたいかどうかは、あれが決める」

 背中を見送ったあと、店の脇の樽の陰にしゃがんだ。戸が開けばまだ、あの卓の声が聞こえた。自分がいないのにもう次の話に移っていた。誰かに見つけられる前に立とうとして、樽の縁に手を掛けたまま、しばらく立てなかった。


 長屋に戻ると、ニナが針仕事をしていた。膝の上に見慣れない青い布が、幅を揃えて二枚あった。

「ヒルカのところへ行ったのね」

「なんでわかるんだ」

「あの店の胡桃パンの匂いよ。あの子の好きなもの、私だって知ってるもの」

 油紙を卓に置き、仕事鞄を戸の脇の釘に掛けた。今夜はやけにぺしゃんこだった。ニナがそちらを見た。

「ねえ、読み役の名簿はどうしたの」

「今日は俺が持ってる日じゃない」

 嘘をついた。取り上げられたと言えば、どんなふうに親方に渡したかまで聞かれる。マレクはニナに背を向けたまま、しばらく釘の頭をいじっていた。もう聞かれないとわかってから、卓に戻ってパンをちぎった。端の固いところだけが、どうしても同じ大きさに割れなかった。

「その布は? 何を縫ってるんだ」

「縫うのはやめたの。ほどいてるのよ」

 それきりニナも喋らず、抜いた糸を手の甲に巻き取った。帰っていったあと、パンの端はどちらも卓の上に残っていた。

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