第5話
約束の日、終業の鐘を西の石橋の東詰で聞いた。点灯夫が長い竿を引くと、頭上の街灯に小さな黄色い火がついた。
坂をこちらへ下りてきたのは、紺の上着を着たヤーノだった。いつもの革上着と違って肩がすこし窮屈そうだ。生成りのシャツの襟は、まっすぐすぎるくらいまっすぐだった。
「待たせたか」
「いいえ、鐘が鳴りやんだところ」
すぐ後ろから来た役人二人と目が合った。あの晩、長机の向かいで笑っていた人たちだ。思わず欄干に寄ると、ヤーノはそのぶん遠いところで足を止めた。
「店はあの角だったな」
「ええ」
歩きだしたら袖口が擦れた。私がちょっと歩幅を広げると、彼は逆に狭めた。袖がまた擦れた。
焼き菓子屋の戸を開けると、私の好きな角の卓に、椅子が逆さに積んであった。どの脚にも白いペンキが光っている。小僧が濡れた刷毛を背中に隠した。
「食堂は今日お休みなんです。お持ち帰りなら、無花果のが今ちょうど焼けてますよ」
奥でお茶を頼んで、あの卓でゆっくり食べるつもりだった。ヤーノがちょっと首を伸ばして店の外を見た。
「包んでもらって、いつもの丸太まで歩くか?」
「ちょっと遠いわ。せっかくのパイ、生地がしんなりしてから食べたくないもの」
「じゃあ、橋の裏の風除け小屋は? 船具の箱に腰を掛けられる」
「そんな隅っこで? 誰かに隠れて食べるみたい」
ヤーノが戸の取っ手を掴んだまま私を見た。
「お前、隠れたいんじゃなかったのか」
「え?」
「さっき俺の後ろから役場の二人が来たら、すっと離れただろ。俺といるの、見られたくないのかと思った」
表で人が待っている。二人で戸を出て、窓の脇まで寄った。
「違うわ。あの二人、あの日私の目の前で笑ってたの。あなたがあの人たちの顔を見たら、またそっちへ行っちゃう気がした。自分で会いに来てって言ったくせにね」
「それは俺に覚えがあるからな。ただ、俺は今日、朝っぱらからこいつに熱いこてまで当てたんだ。人が来た途端に横を空けられるの、結構こたえるよ」
こいつ、と自分の襟を指した。先が片方だけ外に反っているのは、そういう訳だったのか。
「今度私が下がったら、ヒルカって呼んで。そこにいるって、私にわかるように」
「呼ぶよ」
私が店のなかを振り返ると、小僧はもう刷毛を置いて、盆を持って待っていた。
「干し無花果のをひとつ、半分に切って。包みはひとつでいいわ」
橋の石段に、手すりが風を遮ってくれるところを見つけた。私が一番上に座ると、ヤーノも隣へ腰を下ろした。
私が包みをほどく間に彼が袖をまくった。シャツの袖口に、青い糸で繕った跡がある。
「それも自分で?」
「ああ。白い糸を買いに行けばよかったな」
水門の棒を軽々と担ぐ手でよくまあ、こんなに小さな針目が揃うものだ。
「そこばっかり見てると冷めるぞ」
「はい、あなたの半分」
受け取る指が、私の指先を少し擦った。もう一回、手渡すところからやり直したかった。そんなことを考えていたせいで、最初のひと口だけは味を覚えていない。
「うまいな。これ、真ん中の粒まであったかいんだな」
冷たい夜気のなかで、生地は端までぱりぱり鳴った。ここで食べられてよかった。
通りかかった水門番が手を挙げた。ヤーノの胸ポケットから、見慣れた手巾の青い縁が覗いている。番人もそれに目を留めた。
「何だ、いい釣り針でも仕入れたか? 俺にも見せろよ」
「針じゃない。気に入ったものだ」
ヤーノは釦を掛け、いつもの調子で「じゃあな」と言った。番人のほうも「じゃあな」と、もう坂を下りていた。
「引き出しの手前に置くんじゃなかったの?」
「今朝そこから持ってきた。あそこ、俺が仕事に行くと見えないだろ」
何でもない顔で、残りのパイを口に運んでいる。私も何でもない顔をしようとしたけれど、口の中の無花果がいつまでも甘くて困った。
その頃、町の東の仕立て工房で、ニナは仕事を終えたマルタを呼び止めそびれた。仕事台のまわりにはまだ人が多かった。二階の住まいに戻るのを待って、裏階段を上がった。
「マルタ。ねえ、少しいい?」
戸の小窓からマルタが顔を出した。つい去年までは、どちらかが遅番になると、先に済んだほうがこの階段で胡桃を割って待っていた。ニナはもう部屋に上がるつもりでショールまで脱いでいた。
「マレクがこの頃、私が何を言ってもヒルカの話にしてしまうの。あなたにだけでも聞いてほしくて」
「ニナ。私、あなたに返すものがある」
小窓がいっぱいに開いた。差し出されたのは見覚えのある青い巾着だった。中に銀貨が入っていた。二人の店の手付けにと、ニナが去年から少しずつ預けてきた金だ。
「待って。桶屋さん、あの場所を貸してくれないって?」
「借りないことにしたのよ、あの店は」
「どうして! お金なら私、もう少し出せるわ」
「お金は足りてる。あなたと二人ではやれない」
巾着を受け取れずにいると、マルタはそれを小窓の枠に置いた。
「去年の秋、私が振られて泣いた晩、泊まってくれたでしょ。あのときは本当にありがとう。朝、私が編んでた靴下、片方だけできてたのを覚えてる?」
覚えていた。そのあとの酒場も。片方で振られて、もう片方は誰が履くの、というニナの言葉に合わせて、マレクが片足でぴょんぴょん歩いた。あのときは可笑しくて、息もできなかった。
「今日、仮縫いに来たお客に、もう片方の靴下は誰が履いたのかって訊かれたわ。何のことかと思ったら、あの人に帰ってきてほしくて私が編みかけの靴下を抱いて寝たって。跳ね橋亭で聞いたって、その人、片足で跳ねてみせたのよ」
「抱いて寝たなんて、私、言ってない」
「私が泣いてたのと、片方しか編めてなかったのは、言ったでしょう。あの朝うちにいたのは、あなただけよ」
どう言えばもう一度中へ入って、あの晩みたいに手を握ってもらえるか。そればかり考えていたニナの前で、マルタは手を引っ込めた。
「仮縫いのとき、お客さんは私たちの前で肌着一枚になるのよ。戸を閉めたらここだけの話にするって、それも守れない相手と、私は同じ看板を出せない」
昔から真面目すぎるのよ。そう言って肩を小突くには、戸板一枚がどうにも厚かった。
「靴下はね、ほどいて自分の寸法で編み直したわ。私、あの人がいなくても両足あるから」
小窓が閉まる前に、ニナはようやく巾着を取った。階段の中ほどで一度腰を下ろした。店の窓二つ分、カーテンの青い布をもう裁ってしまった。あの窓にしか合わない幅だった。手すりに額を押しつけていると、下を通った子が「どうしたの」と訊いた。もう喉がひくついて返事もできなかった。
石段を立つとき、膝を伸ばし損ねてよろめいた。ヤーノが支えてくれた腕に掴まって、「ありがとう」と言った。足のしびれが取れてからも、角まで袖はそのまま借りた。
「ヤーノ、次は昼間に会えない? 今度の日曜、古い水車小屋のそばに林檎の市が立つでしょう。朝から一緒に歩きたいの」
「昼に、じゃなかったのか?」
「お昼まで待たなくちゃいけない?」
彼はあのきっちりした襟に指を入れて、ようやくひとつ釦を外した。
「朝の八時に、水車小屋の橋で待ってる」
「遅れないでね」
「遅れるわけがないだろ」
家の門で「じゃあね」と言うと、格子の向こうでヤーノが片手を挙げた。
「じゃあ、日曜日」




