第3話
三日たっても、あの平たい石は外套のポケットに入ったままだった。指で触れるたび、対岸を狙ったくせに足元でどぼんとやったヤーノを思い出す。あの人の石が一度でも跳ねたら、どんな顔をするだろう。
焼き菓子を二つ、籠に詰めた。石を洗う布も一枚、畳んで入れた。彼がいなければ一人で投げて帰ればいい。そう思いながら、わざわざ役場の仕事が引ける頃を見計らって川原へ降りた。
砂利浜の先で、ヤーノが杭に腰掛けて靴の砂を払っていた。来てよかった、と思わず足が速くなったところで、向こうが顔を上げた。
「また石投げか?」
「菓子が余ったんです」
「それはどうも」
包みを開けたら、二つとも別々の紙でくるんであるのがばれてしまう。私は蓋をしたまま、籠を石積みの上に載せた。
「あれから練習したんですか」
「したよ。ちっとも跳ねないけど、よさそうな石は見分けられるようになった。ほら」
差し出されたのは、親指のかかりがよくて、両面がとびきり平らな石だった。ポケットから出しかけた私の石はしまって、彼の選んだのを川面すれすれに滑らせた。五回跳ねて、葦の生え際で水に潜った。
「五回! 私、これだけ飛んだの久しぶり」
「じゃあ俺も」
同じような石を、彼が思いっきり振り抜いた。石は手前の泥に刺さった。
私のスカートの裾に細かな泥が飛んだ。いちばん大きな一滴は、投げた本人の鼻に載っていた。
「すまん、服が」
ヤーノは袖で私の裾を拭こうとして、もっと派手に泥をかぶった自分の袖に気づいた。そのまま腕を浮かせて途方に暮れている。鼻の一滴まで、こちらに向かって律儀にお辞儀をした。
笑いをこらえたら膝に力が入らなくなった。しゃがみ込んで籠から布を出し、彼に渡した。
「まず、その鼻」
「鼻?」
拭いてみて、ようやくヤーノも笑った。
「おかしいな。腕はお前と同じ高さだったぞ」
「私、あの泥を狙えと言いました?」
「石が勝手に曲がったんだ」
「石のせいにしないでください!」
言いながら、また笑ってしまった。
菓子を開けると、大きいほうを彼が私に寄せた。そっちはあなたに食べてもらおうと選んだのよ、と言えば、余ったというのが嘘になる。黙って取り替えた。彼のほうでも黙って大きいのを齧った。
「私ね、形の変な石を拾うのが好きなの」
口に出してから、しまった、と思った。けれど隣の人は菓子を飲み込むのに忙しく、続きを急かしもしなかった。
「じゃがいもみたいに歪んだのとか、鼻が出てるのとか。持って帰って、炭と絵の具で顔を描くの。不機嫌そうな石でも、眉をちょっと上げると、急に困った顔になるのよ」
マレクにも、石の顔はひとつも見せたことがない。いつも取っ手の壊れた戸棚に並べていた。あれなら私しか開け方を知らない。
「俺みたいな顔のは、あるか」
「ええ。ひとつだけ、あなたによく似た仏頂面のが。今度持ってきてあげます」
「仏頂面か」
「そんな顔」
指で教えてやると、ヤーノはなおさら眉を寄せた。鼻の頭に泥が残っている。下描きなんかしなくても、今夜のうちならあの顔が描けそうだった。
帰るとき、彼は菓子の包み紙を二枚ともきれいに畳んで返してくれた。
「ごちそうさん。俺のほう、大きかったな」
気づかないふりで食べてくれていたのか。私はもう、余っただけだとは言わなかった。
その晩、ニナは川役場裏の長屋で蕪の煮込みをよそっていた。
マレクの部屋を訪ねるのは初めてではなかったが、二人きりで食卓につくのは初めてだった。壁の空いた釘に自分のショールを掛けると、彼の仕事着が半分かぶさった。こういうのが見たかったのだと、ニナは鍋に向かってちょっと笑った。
「いい匂いだな。残りは明日の朝、食ってもいいか」
「どうぞ。朝の分は鍋の底を焦がさないでよ。ヒルカみたいに」
一緒に笑うつもりで言ったが、マレクはもう匙を口へ運んでいた。
「そういえば去年、ヒルカが砂糖と塩を間違えて林檎のパイを焼いてさ」
「それ、話したの私よ。あなた、その場にいなかったでしょ」
思ったより素っ気ない声が出た。ニナは笑ってやり直した。
「ねえ、私たちの話をしましょうよ。私、冬にはマルタと店を持てるかもしれないの。ほら、この通りの、今は桶屋が倉にしてるところ。表に窓が二つ並んでるでしょう」
店先の布に並べて縫う二人の名を、もう端切れに何通りも刺してみた。マレクの上着もそこで仕立ててやりたい。
「あそこは日当たりがいいな。詰所から帰るとき、窓が二枚ともきらきら光ってる」
「手元が明るいと、黒い生地でも縫いやすいの。開いたら、来てね」
「ああ。船納めの頃なら、読み役の手当も出る」
そこで会話が途切れた。ニナは湯気の消えた鍋から自分の皿に蕪を足した。もうお腹はいっぱいだった。
「今年も桟橋で口上を読むの? また一番前で聞くわ」
川組は毎年、船納めから春の川開きまで、寄り合いの手紙や挨拶を代読する者を一人選ぶ。最初の大仕事は、舟を下りる船頭の口上だ。大勢の前では照れくさい、字を書くのは苦手だという人たちの話を聞いて書き留めておき、当日、桟橋で読み上げる。遠くの舟にまで聞こえるマレクの声は、あの役によく似合った。
返事の代わりに、彼は左の親指の爪際をむしり始めた。役場で小言を食うとこうなるんだ、と教えてくれたことがある。そのときは余った布を巻いてやった。
「今日も、何か言われたの?」
「カレルがな。親父さんの口上を俺が酒場で喋ったって、朝からうるさいんだ」
「喋ったの?」
「どうせ本番でみんなが聞くのにさ。もういいだろ、飯を食おう」
マレクは左手を卓の下に隠した。ポケットに麻の端切れが入っている。手を出してよと頼めば、前みたいに巻いてやれるのに。ニナの口から出たのは別の言葉だった。
「水門では威勢がいいのにね。そんなにカレルが怖いの、指をいじめるほど?」
「お前、人の悪口ばっかりだな」
マレクは匙を置いた。
「……なによ、それ。あなたがヒルカの話をしてたとき、私が一緒に笑うと、あんなに喜んでたじゃない!」
「あれは笑い話だろ」
「じゃあさっき、私が言ったのもそうよ。どうして笑わないの?」
隣の部屋で子どもが咳をした。いつもの酒場なら、どちらかが黙っても誰かがおどけてくれた。ここには椅子が二つしかない。
ニナは残った煮込みを朝の分の小鍋に移した。この人の朝御飯を作るのは、ずっと羨ましかったことなのに。
「明日も来る?」
訊いたマレクの声は急に頼りなかった。ニナはつい、うなずいてしまった。ショールを取ると、からし色の毛糸に釘の錆がついていた。




