第2話
夜明けに外套を着た。父の部屋をノックする前に、ポケットの合鍵を握ってみた。ちゃんと入っていた。
戸を開けた父は、私が喉元まできっちり留めた外套を見て、眼鏡を外した。
「父さん。昨夜、マレクとの婚約をやめると本人に言いました」
「そうか。お入り」
椅子は勧めてくれたけれど、座ったら立てなくなりそうで、机の向かいに立ったまま話した。
「二人だけの話にしてって頼んだことを、何度も人前で話されました。あの人と暮らしたら、家にいる間じゅう、金曜の酒場で誰かに聞かせてもいいことしか喋れないわ」
口に出すと、そんな窮屈な家によく嫁ごうとしていたものだと思った。今朝からそう思えるようになっただけで、昨日までは台所に置く鍋まで決めていたのだけれど。
「わかった。向こうの親御さんには私から話そうか」
「役場から知らせが行くわ。もし先に会ったら、私が自分で決めたと伝えて」
婚約を解く届けには、申し出る本人とは別に、意思を確かめた人の印がひとつ要る。私が署名すると、父はその隣に印を押した。最後に紙の角を揃えて持たせてくれる手つきが、子どもの頃、宿題を見てくれたときと同じだった。
川役場に着いたのは、朝の開庁の鐘が鳴り終わった直後だった。
登記窓口の老書記官は父の印を確かめると、台帳の上にペンを浮かせて念を押した。
「ここに線を引いたらおしまいだ。いいんだね」
うなずくと、二人の名前に線が引かれた。私の姓の半ばでインクが切れたので、書記官はペン先をもう一度壺に浸した。
「受領の控えだ。先方の親元へは今日の便で知らせるよ」
紙片を受け取って振り返ったところへ、マレクが駆け込んできた。制服の釦をひとつかけ違えていた。昨日までなら、挨拶より先にそこに手を出していた。
「ヒルカ! 家に行ったらもう出たっていうから、走ってきたんだぞ。昨夜は悪かったよ。ほら、これ」
取り出したのは、昨夜ジョッキの脇に置いた腕飾りだった。
「忘れてたぞ。いくらなんでも、あんなところで外すなよ。ニナも心配してた。『あの子は思い詰めると極端だから、あなたが迎えに行ってあげて』ってさ」
腕飾りを差し出したその手に、合鍵を置いた。鍵が銀の魚の尾に当たって、ちり、と鳴った。
「忘れ物じゃないわ。どちらも返すの。婚約は今ここで解きました」
「は?」
「あなたの家にも知らせが行くわ」
「お前、本気で言ってるのか? たかが酒場の冗談だろ。粉まみれになったのがそんなに恥ずかしかったのかよ。お前だって、あのとき一緒に笑ってたじゃないか!」
「うちの台所ではね。昨日はやめてって言ったでしょう。卓の下で私の膝を叩いたわよね」
マレクが口をつぐんだ。膝に触れられたときの安堵まで思い出した。あの一瞬、私の言うことを聞いてくれたと思ったのだ。
「待てって! 親父さんたちだって納得しないだろ!」
「父の印なら、その届けにあるわ」
横を通り抜けるとき、彼の手はまだ鍵と腕飾りで塞がっていた。
頬が熱かった。人の多い表通りを避けて、役場の裏の荷揚場へ下りた。石段の下のほうは濡れていて、小さな波が寄せては引いていた。
七つの夏、このあたりで足を滑らせた私を、袖を掴んで引き上げたのはニナだ。二人して岸に座り込んだとき、あの子はまだ私の破れた袖を握っていた。先に泣きだしたのもニナだった。
あのとき私が珍しくもらい泣きしたの、まだ覚えてる? ふと訊きたくなった相手は、今朝、自分の代わりにマレクを寄こした。
「ヒルカ」
倉庫の陰で声がした。ヤーノが水門の鍵棒についた油を、ぼろ布で拭っていた。
「また、あなたですか」
「そこの水門が俺の持ち場だ。さっきマレクの声が聞こえた」
「見世物ならもうおしまいです」
ヤーノは私の行く手を空け、鍵棒を壁の鉤に戻した。
「昨夜、何がくだらなかったのかって聞いたろ。俺がしたことだ。あいつがお前を見てなかったの、知ってるんだ。俺を見てたから」
彼が自分の膝に拳を当てた。
「杯で卓を叩いて、『そいつは傑作だ』って言ったの、俺だよ」
声の主までは覚えていなかった。でも、卓が鳴ったとき、マレクが得意そうな顔をしたのは覚えていた。
「なぜ、そんなことを?」
「前の晩に俺が鍵棒を溝に落としてな。みんなに探してもらった。酒が入ったら俺の失敗を持ち出すだろうって、ずっとあいつの口を見てた。それで、お前の話になったら、ほっとした」
「私に聞かせて、今度はあなたが楽になりたいの?」
ヤーノは口を開きかけてやめた。
「それもある。悪かった、ヒルカ」
私も「もういいですよ」と言いかけてやめた。ヤーノは返事をせかさず、石段をひとつ空けて腰を下ろした。私もしばらく冷たい風に当たっていたかった。
足元の小石をひとつ、彼が取り上げた。
「もう持ち場に戻らなくていいんですか」
「見張りの交代まで休憩だ。いつも一個だけ投げて戻る」
平たい石を構えるので、どこを狙うのかと私も対岸を見た。どぼん、と足元で音がした。もう済んでいた。
「……下手ですね」
「ああ。今日はちょっとましな音だった」
石が沈んだところを見直した。音の良し悪しで水切りをする人がいるとは知らなかった。
「今の石なら、もっと跳ねますよ。角度です。手首を寝かせて、川面と平行に」
手本を頼まれたわけでもないのに、私は薄い石を拾い、外套の裾をたくし上げていた。肘を低く引いて投げる。石は四回跳ねて、対岸の杭の手前で沈んだ。
ヤーノが指を四本立てた。
「すげえな」
「今のくらいなら、たまに」
「俺だって、たまにいい音を出すぞ」
ちょっとおかしかった。まだ笑う気にはなれなかったけれど、彼はもう私の顔を見ていなかった。砂利から次の平たいのを選んで、私の靴のそばに転がした。
私はそれを拾った。投げずにポケットに入れて、家まで持って帰った。




