第1話
「この間さ、ヒルカが俺にパンを焼いてくれたんだけど」
火傷はもう治っていた。なのに私は、左手をそっと膝の下に入れた。
十月最初の金曜日。川役場の隣にある跳ね橋亭は、今夜も筏乗りと水門番でいっぱいだった。私の婚約者の声は、こんな晩でも長机の端までよく通る。船納めの口上を任されるくらいだ。父は川上に少し土地を持っていて、うちへ挨拶に来る人たちは、娘の私にまで帽子を脱いで言葉を選ぶ。ここでマレクに大声で名前を呼ばれると、前はそれだけで嬉しかった。
「マレク。その話はうちだけにしてって言ったでしょう」
彼は卓の下で私の膝をぽんと叩いた。聞こえたのだと思って、私は左手を卓に戻しかけた。
「ほら、またヒルカの話でしょ。マレクったら、いつもそうなんだから」
マレクの向こうで、幼馴染のニナがからし色のショールを肩に寄せ、頬杖をついた。そうして私の話を何時間でも聞いてくれた子だ。今夜、その顔はマレクのほうを向いていた。
「いいだろ、身内の話なんだからさ。収穫祭の前の晩だよ。俺が詰所から戻ったら、こいつ、熱い鉄の焼き型を素手で掴んじまって」
「そいつは傑作だ!」
誰かが杯の底で卓を鳴らした。マレクはそちらへ身を乗り出した。
「熱いって跳び上がって、型を落としてさ。拾おうとして尻餅ついた拍子に、粉樽までひっくり返したんだ。床一面真っ白で、その真ん中で尻を押さえて、鼻の頭に粉をつけてよ」
「嘘でしょう、ヒルカ」
ニナは口に手巾を当てた。肩だけがよく揺れた。
「子どもの頃からおっちょこちょいだったけど、大人になってもそんな調子なの? マレクがいてくれなきゃ、家ごと燃やしかねないわねえ」
「ほら、そういうとこが可愛いだろ」
マレクが来たとき、私はもう床に座っていた。尻餅まで見たように話せるのは、あとで私が教えたからだ。
川が増水して、彼は三日も水門に詰めていた。いちばん好きだと言っていた胡桃パンを、うちの薪窯で焼いてやりたかった。焦げる匂いに慌てて、布巾を掴み損ねた。
あの人は泥の長靴を脱ぐより先に、水桶を引き寄せて私の手を浸してくれた。
「食べられるとこ、まだあるか?」
そう聞いてくれたのが嬉しくて、ようやく顔を上げた。まだ粉っぽい鼻を彼の上着に押しつけたまま頼んだのだ。
「お願いだから、誰にも言わないでね。二人だけの秘密にして」
「ああ。絶対に言わない」
焦げていない端っこを探して、あの晩は二人でずいぶん笑った。
水路の段差で転んだ話も、届けの印を取り違えた話も、金曜になるとこの机で披露された。いつもは私が先に笑ってやった。それがいちばん早く済むからだ。
「ヒルカはさ、放っておくと何するか分からないからな」
マレクが私の頭を小突こうとした。身を引くと、指が私の耳の脇を通り過ぎた。
「おい、ヒルカ?」
長机の端で、マレクの同僚のヤーノが杯を置いた。さっき私が尻餅をついたところで、彼の大きな肩も跳ねていた。今は自分の指を見ている。
「どうしたのよ、ヒルカ。マレクはあなたのそういうところも可愛いって言いたいのよ。ねえ?」
「そうだよ。みんな笑って聞いてくれてるだろ」
私は立ち上がった。十八の誕生日にマレクがくれた銀の腕飾りを外す。川魚の形の留め金は、尾を押しながら頭を捻ると開く。初めは必ず彼を呼んだのに、いつのまにか片手でできるようになっていた。
銀の魚を彼のジョッキの脇に置くと、ニナもやっと私の顔を見た。ちょうどよかった。どちらにも聞きたかった。
「私の悪口が尽きたら、二人で何を話すの?」
ニナの手巾が口元から落ちた。マレクは卓の上の魚と私の顔を交互に見た。
「は? 悪口なんて言ってないだろ。ただの笑い話だ」
「私まで一緒に笑わなきゃいけないの、もう嫌なの。笑ってみせたら、また次があるでしょう」
息を吸うと、思っていたよりちゃんと声が出た。
「婚約は解きます。明日は父に話して、私が役場へ行くわ」
「おい、待てよ! こんな大勢の前で、何の真似だ!」
後ろで椅子がひっくり返った。戸口に座っていた筏乗りが、脚を引いて通してくれた。今夜初めて会った人だった。
川霧の中で街灯の火が傾いていた。一軒隣まで歩いたところで、膝が震えだした。あれだけの人の前で言えたのに、今マレクがすぐ後ろにいたら、振り向けそうになかった。
「おい、待ってくれ!」
追いかけてきたのはヤーノだった。私の三歩ほど手前で足を止め、腕に掛けていた灰色の布を差し出した。
「これ。椅子から落ちてた」
私のショールだった。母の紡いだ糸はところどころ太くて、暗くても触ればわかる。
「ありがとうございます」
受け取っても、端がまだ彼の指に引っかかっていた。
「あのさ。さっきの、マレクの話」
「ええ。あなたも笑っていらっしゃいましたね」
親指が開いた。ショールがすっかり私の腕に落ちた。
「……ああ。笑った。悪かった。くだらないと思ってたのに」
「何がくだらなかったんですか。話すほう? 転んだほう?」
ヤーノは口を開けたが、言葉は出てこなかった。私から何か言って助けてやるのは、今夜はもうたくさんだった。
「ショール、届けてくださってどうも」
肩に掛けて歩きだした。今度は誰も追ってこなかった。
川沿いのわが家に着いたのは、九時の鐘が鳴る頃だった。
机には料理の覚え書きが開いていた。川魚の甘露煮の作り方を、昨夜、分量の途中まで書いた。次はこれも笑われるところだったのか。それとも今度こそ、おいしいと言ってくれたのか。まだ、あの人に食べてほしいと思うのが悔しかった。
引き出しの底の木箱を開けた。手紙の上には、マレクが子どもの頃に拾ったという縞入りの瑪瑙がある。手紙も石も捨てるつもりで出したのに、掌に載せたら、明日でもいい気がした。
瑪瑙ごと手紙を木箱に戻して蓋をした。
マレクの部屋の合鍵だけは、明日着ていく外套のポケットに入れた。




